三浦 七郎

  1. 東与賀町
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三浦 七郎

■所在地佐賀市東与賀町
■年代近代
■登録ID1191

工学博士三浦七郎は明治22年12月15日、父門平・母ナカの三男として上古賀村に誕生した。生来が短躯峻敏で頭脳明晰、佐賀県立佐賀中学校を優秀な成績で卒業し、進んで雄図を抱いて帝国大学の工学部に学んだ。これも抜群の成績で卒業したが、直ちに内務省に任官し昭和12年には、下関土木出張所長に栄転した。かくて九州及び防長二州にわたる現業官庁の統帥として活躍し、東では関門国道トンネル及び宇部港修築の大工事にあたり、西では球磨・肝属両川の改修や本県の佐賀市を東西に横走する坦々たる国道幹線の起工に着手し、わが国の土木・河川・道路の新設や改修に身を挺して努力した。
たまたま日支事変が勃発し日中の政情が一変したが、彼は昭和13年初夏選ばれて北支建設総署の初代技監に任ぜられ、共栄圏を目指して建設開発のために出向した。以来星霜世局ともに幾変転して彼の身辺にも困窮多難はあったが、一死不還の決意で要務に精励した。やがて興亜院が創設されるやその功績を認められ、技術部長の要職につき、昭和17年11月更に栄進して大東亜省参事官に補せられた。その後は華北交通理事・港湾総局長・塘活新港港湾局長として敏腕を振い、大きくは揚子江や黄河の大改修にも着手する寸前に、激務のために病気となり昭和20年3月頃北京で逝去し享年は57歳であった。葬儀は佐賀市水ヶ江町新道宗龍寺で盛大に執行されたのである。
彼は資性闊達であったが人情も豊かで温情味が溢れ、特に愛郷心に富んで激務のかたわら暇を見つけては、よく上古賀を訪問した。栄蔵寺にあった祖先の墓参と共に、親族縁故と睦び合い、友人や村人にも接して故郷への感謝と報恩を生涯忘れなかったのである。

出典:東与賀町史p1252