増田 嘉一

  1. 東与賀町
  2. 東与賀町
  3. 増田 嘉一

増田 嘉一

■所在地佐賀市東与賀町
■年代近代
■登録ID1187

増田嘉一は東与賀町大字下古賀(立野)増田善六の三男として明治15年11月18日生まれである。
本庄小学校を卒業後17歳にして海軍に少年志願し入隊する。更に海軍水雷学校を卒業し、主として「野分」等の駆逐艦勤務を主としていたが、軍艦出雲に乗艦しアメリカへ航海し見聞を広めている。そして海軍時代に旧制中学校程度の英数や簿記等については独学して修得し、広汎な学力を身につけていた。明治37、8年戦役や第1次世界大戦に参加し、厳しい艦隊勤務を経験し、青島沖では砲弾の嵐の中で友艦高千穂の救助作業等輝かしい武勲をたてている。1921年〜22年のワシントン軍縮会議が調印され、海軍特務少尉で予備役編入となり、東与賀立野に居を構えた。
東与賀産業組合が設立されると専務として迎えられ、かねて身につけていた簿記と軍隊で鍛えた筋金入りの実践力で組合員の先頭に立って率先垂範した。山田八郎会長、福岡長三郎書記長と力を合わせ産業組合は年毎に充実した。こうして、全国表彰を2回受けている。出雲での受賞記念写真は増田家に保存されている。
大正末期から昭和初期は不景気の鍋底で、自力更生、勤倹貯蓄を掲げ、副業を奨励した。朝は5時起床「朝がい」(朝食前の仕事)に励み、縄ない、叺織りの音で村はにぎわった。立野村落では平方喜八が土地を寄付して共同作業場を建て、競争して縄ない、叺織りに励んだ彼は石油カンをたたいて村をまわり「朝がい」を督励した。
一方信用組合の充実をはかり勤倹貯蓄をすすめ、高い融資から低利の組合資金の借り替え指導や各戸の経済の細かい相談相手も務め、寛厳よろしく、組合員に親しまれる存在となった。営農指導面では牟田熊吉技手と名コンビを組み村内の地質検査を行い土地の酸性化を科学的に示し、堆肥増産運動に力を入れた。道端の雑草も利用する徹底した指導であり土地に適した配合肥料はこの時から始まった。また県の嘱託を命ぜられ、県下各地で実践例を披露講演してその名は県下に知られた。しかし自己限界を60歳と定め、惜しまれながらも勇退し激務から開放された。
昭和20年10月6日逝去、享年63歳、文字どおり滅私奉公の一生を閉じた。

出典:東与賀町史p1247