富吉 景行

  1. 東与賀町
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富吉 景行

■所在地佐賀市東与賀町
■年代近代
■登録ID1186

富吉景行は幼名を「弥六」といい明治15年2月下飯盛に生まれた。医業を志して同39年長崎医学専門学校に入学した。卒業後は東京の田村病院で研修を積み、同42年下飯盛に診療所「十全堂医院」を創設して開業した。以来30数年間を郷土民や学童等の仁術医師として、患者の治療・接種・点眼等の医務に専念した。その間村民の要望に応えて村会議員3期を勤め、更に昭和4年には佐賀県会議員に見事当選して、本県医療行政と厚生事業にも貢献した。
彼は貴公子然たる容姿と豪放磊落な気性を備えていた。頭髪を七、三に分け金ぶち眼鏡に意気な蝶ネクタイが似合っていた。現在長崎市に居住する一人娘山口美枝子がいるが、ありし日の父の想い出を次のように述懐するのであった。
父は公私の立場で精一ぱい頑張っていたが、よく「人間は敵半分に味方半分だ」と嘆いていた。これは村議・県議会の任期中に、いかにしのぎをけずって論争が激しく苦労をしたか。また他所様からの戴きものを極度に嫌ったことである。ある日母が貰い物をことわり切れず、父に一寸言いわけをしたら、大声一番母の顔面を平手打ちにした。その後は高級品のビスケットの詰め合わせを頂戴しても開ける事も出来ず、私達子どもはただ外側の絵を見るだけだった。父がいかに清廉潔白でけじめ正しい性格であったかが偲ばれる。

出典:東与賀町史p1246