三浦 虎次郎

  1. 東与賀町
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三浦 虎次郎

■所在地佐賀市東与賀町
■年代近代
■登録ID1182

三浦虎次郎は明治8年12月、父愛吉母スエの長男として、上古賀に産声をあげた。出生時の住宅は現在の公民館の西側で、母屋の外に白壁の倉庫を持ち、水田2町歩を耕作するという大百姓であった。彼は生まれつき体も大きく腕っぷしが強く負けん気が人一倍で、村内切っての餓鬼大将として「鬼虎」の愛称で呼ばれていた。しかも友情に厚く同僚や部下を可愛がり、強い者には立向うが弱い者を助けるという義侠心にも富んでいた。
明治25年僅か17歳で海軍に志願し佐世保海兵団に入団したが、間もなく日清戦争が勃発した。彼は旗艦「松島」に乗り込んだが、明治27年9月17日午後2時30分より2時間ばかり黄海の大激戦となった。敵の旗艦「定遠」にはわが艦隊より集中砲火を浴びせかけ大火災が起こった。こちらの松島にも敵の砲弾が炸裂して、甲板上は修羅場と化した。虎次郎は上甲板で砲手をつとめていたが、全身に弾丸の破片をうけて負傷し血だらけで倒れた。そこへ副艦長の向山少佐が通りかかったので、彼は「まだ沈みませんか!定遠は!」この叫びに副長は「あれを見よ。もう沈みかかったぞ!」その声に「必ず敵(かたき)を打って下さい。天皇陛下万歳!」と断末魔の苦しい中から絶叫して息が絶えた。時に3時30分。かくて僅か19歳を一期として波荒き黄海の海に散華したのである。
昭和4年9月17日は虎次郎が壮烈悲壮の戦死後35回忌の命日に当たるが、祖国を愛し殉国の熱情を永久に讃えるために、現在の地に見事な顕彰碑が建設された。当時中尾都昭新聞社長(その頃佐賀毎夕新聞)及び村長山田八郎や栄蔵寺住職花山鶴音等によって、県内外から一人1銭の寄付金募集がなされ、遂に1万数千余円の浄財をもって建立された。この日は親族をはじめ村内外よりも来賓や村民等多数が集まる中に、佐世保からは海軍軍楽隊も見えて、盛大な竣工の式典と共に慰霊祭が開催され、また余興の青年角力等もあって1日中賑合った。
ところが終戦と共に進駐軍からこの顕彰碑の取りこわしを強要されたが、主催する村としても新聞社としても拒み通して、ただ碑文だけを削ることで話し合いが決着した。その後十数年間そのままに放置されていたが、村長碇壮次は中尾新聞社長とはかり池田佐賀県知事はじめ県内外の有志者に呼びかけ、直ちに40数万円の浄財が集まり、立派な記念碑の復元改修工事が完成された。時に昭和36年4月28日新装成った記念碑前には、遺族の山田治司、下村美代子等が感謝と感激にむせぶ中、宮副副知事をはじめ県内外の来賓や村民等数百名が集まって、慰霊祭が厳粛盛大に挙行された。

出典:東与賀町史p1240