木下 文次
木下 文次
■所在地佐賀市東与賀町
■年代近代
■登録ID1181
木下文次は明治8年1月3日、木下善次(東与賀村2代助役)の長男として、東与賀町上町に生まれた。幼少の頃から学を好み、子守りしながら妙福寺の高木塾に通った。与賀高等小学校2年から佐賀中学校へと進み、陸軍士官学校は恩賜の銀時計組の英才である。日露戦役に従軍し敵弾の飛びくる第一線で泰然自若として、指揮をとった。部下はその豪胆さにただただ驚嘆した。かくて連勝したが遼陽合戦で不幸にも敵弾を負い第一戦を離れた。戦後陸軍大学に学んだが、ここでも銀時計組となった。第二師団(仙台)参謀長の頃は仙台幼年学校長に嘉村達次郎がいて、佐賀葉隠の意気を遠く陸奥の地に響かせたものである。第二十九旅団長(静岡)を経て、旅順要塞司令官として軍事と遼東半島の軍政を司った。陸軍大将まで嘱望されながら、世は軍縮一途をたどり、陸軍中将で予備役編入、正四位勲二等(後、正二位)に叙せられている。
住を佐賀市大財町に移したが参謀軍歴の中将は、なおも戦術研究に没頭し、傍ら佐賀育英会の事業や佐嘉神社奉賛会長などをつとめ、神社庁表彰の栄誉に輝いている。退役後は紋付に白足袋姿で暮らし、正座しては謹厳実直何時間でもその姿を崩さなかった。父と早く死別したため8人の弟妹の世話もよくした。兄弟は皆秀才一家で上町の実家古賀源吉宅で17人の大家族として従弟と共に育っている。そこで上町への愛着は深く、上町公民館は木下中将の寄贈になるものであり、佐賀市にも大財町遊園地を贈っている。「相倚相済以共其福利」の条巾を上町地区のために揮毫し、毎年の村の招魂祭には幣帛料を必ず贈り続けて、ねんごろに英霊を弔った。
昭和43年、享年93歳をもって至誠一すじの生涯を全うした。
出典:東与賀町史p1239