実久

実久

■所在地佐賀市東与賀町実久
■登録ID1171

実久は東与賀町の東北部に位置し、北は堀を隔てて本庄町と接し、東は立野、西は鍛冶屋、南は上町に相接している。『正保絵図』に「実久」の村名が見えるが、有明海の干潟が干拓へ移行していった鎌倉時代の海岸地帯とみられている。万延元年の郷村帳には実久村の小字に「鍛冶屋・上町・島の内」が見える。
実久の地名について地元の人々の伝承によれば「実久の郷」よりきており、その郷主は故山口元助である。この山口元助は当時石高切米5石5斗の鉄砲足軽で、その大組頭は鍋島主水であった。その頃この村落の東の隅に「郷倉」があって、藩政時代から籾(もみ)を貯蔵していた。一面「実久津」の名称も残っていて、昔は海岸線か河川に近く、籾や穀類を船で積み出す場所だったことも考えられる現に「喜十屋敷」の名も残っているが、これは故平方喜十の屋敷のあとで、その頃、領中で15石の組頭であったという。水田圃場整備事業の際、この喜十屋敷の跡から数個の遺体や位牌等も掘り出されたそうである。その他、なまず屋敷とか田中屋敷等の旧地名が残っており、田中屋敷には墓地が現存している。
この実久は他の村落に比べて土地としては狭い方であるが、龍水院と円通寺の2か寺があり、すでに廃寺となった威徳寺と潮音寺があり、四つの寺院が連立していた。このことは実久が東与賀村発祥の地として人口も多く戸数も多かったのではないかと推定される。実は本庄町鹿子八幡宮から御神体の一つを分けて、東与賀町船津八幡宮へ移した時の絵巻物が、この集落の旧家村岡氏宅に保存されている。それらと考え合わせるとこの実久は立野や鍛冶屋と共に、東与賀町でも一番早く開拓されたとちではないかと思惟される。ところが鍛冶屋における鍛冶職の衰退と共に、戸数も減じたがその際に実久より鍛冶屋に移住者が多かった。現在鍛冶屋に住む井原・平方・御厨等の姓はその代表であって、元々は実久の子孫であり分家である。

出典:東与賀町史P1156