中飯盛

中飯盛

■所在地佐賀市東与賀町中飯盛
■登録ID1158

中飯盛は東与賀町では北西部の一番端に位置し、北は本庄町上飯盛に西は西与賀町元相応に境し、南は下飯盛と相接している。
この中飯盛の由来について、古老の古川茂士(元東与賀村の助役)の談話を記述したい。
「昔、有明海の干拓事業の際に、飯場(飯を炊いて多くの人夫に食べさせる場所=飯を盛る所)が3か所次々にできた。その第1番目の飯場という意味で上飯盛=佐賀市本庄町、次の場所を中飯盛、3番目を下飯盛と呼ぶようになった由。この中飯盛・下飯盛と大野を併せて大字飯盛と称するようになったので、大野にもこの飯場があったとの説も残っている。この村落内の悟真寺は、山号を飯盛山と呼ばれるのもここに起因するものである。」
中飯盛は産業や教育方面についても東与賀村でも先進地であった。特に生産組合や婦人会活動等の実践記録も残されていて、よき伝統は今日も脈々と引き継がれている。
まず生産組合の活動であるが、活動の拠点は旧公民館であった。この旧公民館は昭和28年の大水害後に、当時の佐賀県立佐賀中学校の剣道場を払い下げて貰い、移転し改造築したものである。この旧公民館を諸行事や生活改善の外生産組合括動に利用し活用した。戦時中における農繁期の託児所や共同炊事(当時佐賀県で最初)や、戦後いち早く公営結婚を創始して本村における生活改善ののろしを上げて実行にも踏み切ったのである。このことは明治40年の頃、本村でも他に先がけて既に実行組合を組織し、現在の農協の元祖を作っていたからである。
また地域における子ども・学童の教育にも意を用い、当時の小学校男児を集めて悟真寺で「学友会」を始めた。その他大人はもちろん青年層・婦人会・少年たちに至るまで、浮立・七福神・川神祭り・荒神祭・ほんげんぎょう・初午等伝統的で楽しい諸行事を励行してきた。これらの麗しい村の行事も時代の変遷に伴ってほとんど姿を消したが、最近になってこの村に「浮立」が見事に復活された。この村のは天衝舞浮立の伝統を踏むものであるが、徳久弘を中心に村の長老・先輩等が指導者となり農閑期を利用して練習と花笠や衣装作りが毎晩続けられた。昭和57年5月元町長故碇壮次の胸像除幕式が役場の広場で挙行されたが、これを祝福して初めて公開され、華麗壮厳な浮立の舞が晴れた5月の空の下で脚光を浴びたのである。

出典:東与賀町史P1208