中村

中村

■所在地佐賀市東与賀町中村
■年代無し
■登録ID1153

中村の「字名」は、貞享年間(1684〜1687)の郷村一覧表にはなく、明治以前に住吉から分離独立したとの証言がある。それは住吉との境界に「鶴(つん)の内」と呼ばれる約3反歩余りの免田があったが、協議の結果その中から約7畝歩を中村が譲り受けて、現在も耕作しているという。この「中村」という地名は、全国的に見ても一番多く、「村の中央に当たる」とか、「中心部の役割」等と解釈される。実際に東与賀の現地図を広げて見ても、この中村は東西南北のほぼ中央に位置して、明治の頃から油屋・米仲買い・菓子屋・生(なま)がわうどん屋があり、また郷倉の跡もあることから、確かに産業上・経済上の中心地であったようだ。
古老の説明によると、この中村に明治以前より住み着いたのは12〜3戸で、その中でも山田千三(宣之の祖父)吉富藤兵衛・小野勝次等が一番の旧家であるという。以前は周路を北と南の二つに分けて、ごみくり作業の公役をやっていたが、後には北西・南東・南西周路となり、現在では戸数も増したので、1班から6班までの隣保組織である。
この村人の特徴は、昔より勤労意欲が旺盛で特に農家の副業としての藁細工に本腰を入れ、叺(かます)織り作業は東与賀村内でも最も熱心であった。当時名農協長として賛仰された故増田嘉一の指導督励と相まって、この中村の成績は抜群で売上額は裏作の麦代金の数倍に達したという。その頃副業振興のため佐賀郡農業組合主催で「叺織り競技会」が郡内の各地で開催されたが、この中村より優秀な選手が推せんされ出場して、優勝したこともしばしばであった。優勝のためには技術の熟練が大切だが、この村の人々は早朝5時に起き出で、晩は12時までもこの叺織りに専念したのである。そのためには幼い子ども達も学校から帰宅すると、叺に必要な小縄をなったり、叺の耳を鋏で切り取ったりして加勢せねばならない。まさに一家総動員による叺織り態勢であった。

出典:東与賀町史P1201