上古賀

上古賀

■所在地佐賀市東与賀町上古賀
■登録ID1141

上古賀は東与賀町内では最北端に位置し、北は本庄町鹿の子と境し、東は鍛冶屋に西南は田中および下古賀に隣接している。現在の世帯数27であるが、農業・製造業・建設業・公務員・卸小売・寺院等、農村集落としては多種多様の職種である。
上古賀という地名については、古来この周辺一帯は窪地(くぼち)であってその「窪(くぼ)」が「空閑(くが)」となまり、更にその「くが」が「古賀」に変わったものと言い伝えられている。貞享4年(1687)の郷村帳には、田中村の小字に「上古賀・新村」と記載されている。
古老(故船津丸忠作)の談話によれば、現在地の子ども遊園地付近は昔より天神屋敷と呼ばれ、雑木山の中に小宇の祠を祀ってあった。その場内中央に幹の胴回りが大男5人で手をつなぎ合わせてやっと抱きかかえる程に大きい楠の巨木が天空にそびえ立っていた。樹齢も幾百年を数え、遠く南方の有明海を航行する船舶や漁船が、北方を見定める目標であったらしい。この楠の大樹も後日伐採され売却されて、現在の八幡神社新築費用や免田購入の資金になったと語り伝えられている。
しかもこの大楠の果実が、かちがらすその他鳥類のよい餌となって喰われたり飛散して、この村落には楠の老木があちこちに散在し生育し繁茂して、四季折々の風情を飾っている。かくて現在でも「天神やぼ」「鴨村」「かむら」等の昔の地名が残っており、往時を偲(しの)ぶことができる。
この村の住民は敬神崇祖の念に厚く守護神として、西部に八幡神社と天満宮を合祀し、東部には菩提を弔う栄蔵寺の伽藍と共に、その境内に「勇敢なる水兵」の記念碑とその墓地がある。記念碑の側に公民館を設立して、これらを中心に庶民一和の精神で昔からの良き伝統を生かしつつ、新時代に即する村落の平和と発展に努力している。
特に児童・生徒の教育についても強い関心を持ち、終戦後町内では一番早目に地区育友会を結成して、地域ぐるみによる教育活動を推進した。従って村落行事の成人式・川神祭・祗園・クリスマス等の諸行事も育友会行事と不離一体的に開催したり、学童のいない家庭も準会員となって全世帯がこれに参加していた。また男子の中年層と老年層の三夜待や女子の六夜会・葉桜会、更に老人層の福寿会等それぞれのグループによる親睦と研修につとめ、それらがこの村落の繁栄に大きい効果を挙げている。

出典:東与賀町史P1189