■所在地佐賀市東与賀町搦
■登録ID1129

搦は東与賀町の南東部に位置した大村落で、その東側には八田江湖が滔々と流れて川副町と相対し、北側は梅田に隣接している。梅田はこの搦とは因縁が深く、昭和25年の頃まで「搦北」の名称で呼んでいたが、同34年1月よりここから分離独立したものである。古老の話ではこの搦は昔全戸が漁業を営んだが、次第に農業もやるようになり今では半農半漁の家が大部分である。
搦は一名を大搦とも言い、明治4年に田80町歩の新地開拓と共に、村内をはじめ他地区よりの移住民にて組織されたものである。
その旧藩主時代における耕地拡張事業として、次の記録がある。
佐賀郡東與賀村大搦
一、所在地及地区名 佐賀郡東與賀村大字飯盛大搦
二、事業者 舊藩主 鍋島直大侯
三、開發面積 田八十町歩
四、事業ノ顚末
イ、事業施行年月 明治元年着手 同四年竣成
ロ、施行方法
「埋築ニ要スル材料及經費(不明)ノ全部ヲ舊藩主鍋島直大侯ヨリ支出シ之レニ要セシ人夫等ハ元與賀下郷ノ住民ヲ以テ使用セリ」
ハ、經過及成績
「竣成後元下郷ノ人民ニ小作セシメ埋築費ニ對スル利子七朱ヲ小作料トシテ徴収シ明治三十一、二年頃鍋島直大侯ハ 埋築當時ノ契約ニ基キ一反歩二十圓ニテ小作者へ賣却セラレタルヲ以テ現今ニ於テハ悉ク村民ノ所有トナリ居レリ」
更に本村の郷土調査(大正4年版)には、搦村のことについて次のような記事がある。
「本村ハ南方一帯有明潟ニ沿ッテヰルノデ幾多ノ星霜ヲ經ルニ従ヒ南方に地所ヲ発展シツツアルノデアル平八搦ノ如キ今ハ現ニ一部落ヲナシテ新地タル形跡ヲ認メルノデアル
大搦ハ鍋島藩主ノ築成シタル新地デ八十町餘モアル今ハ悉ク水田トナッテヰル 亦授産社搦ハ明治十九年頃佐賀藩一般ノ卒ガ授産金ヲ擲ツテ築キシ所デ七十餘町モアル今ハ大抵水田トナッテヰル其ノ他小ナルモノハ幾多モアル
大正三年八月二十五日有明海岸一面高潮ノ被害ヲ受ケタ全搦の堤防モ之レガ為ニ破壊シテ稲作全滅スルノ惨状ニ陥ッタノデアル」
搦には集落の外にも、栄徳(新搦)・社搦・歳徳・八段搦(西栄徳)等の搦名がいくつも残っている。こうした搦は昔の先輩たちの知恵と努力によって年々と干潟から拓土へと醸成されたものである。こうして立派な干拓ができて見事な水田が完成すると、まず神に感謝し豊作を祈願するのが人情である。このために歳徳には新地大明神を祀り、新搦には弁財天を祀った跡があるが、これは山田徳次郎が献上したと言われる。また西栄徳には大明神を祀ってあるが、俗に雨乞いの神様と崇敬されており、干ばつが続くとこの神様のお顔に泥を塗ると不思議にも雨が降ると言われている。

出典:東与賀町史P1180