鍛冶屋

鍛冶屋

■所在地佐賀市東与賀町
■登録ID1104

鍛冶屋の北部は本庄町鹿の子と境をし、東部を実久に西部は上古賀に近接している。
鍛冶屋という地名は、その昔この地区は鍛冶職の人が多かったので、そのままずばり「鍛冶屋」と命名されたものである。一番の最盛期の明治元年の頃は、この村落は40戸余りもある大村落で住民のほとんどが鍛冶業を営んでいたらしい。その鍛冶といっても刀剣類や農器具ではなく、主として家の建築や船舶の製造に必要な和釘(当時は家釘とか舟釘とも言った)で、長さは8cmから12、3cmの長い釘であった。その形も洋釘と違って、帽子のついた釘ではなくて、T字型の細長く、しかも長大な釘であった。
この釘造りには鍛冶屋さんは、ふいごを使って石炭がらやコークスの燃料で強力な火熱をおこし鉄の原料をこれで熱しては打ち、打っては熱して作ったのである。その鉄を打つカッチンカッチンの高い音律は昼夜を分かたずこの村内外に響き渡り、明治の終わり頃までこの家業にいそしんでいたという。製品は主に佐賀市内や近くは筑後の大川や遠くは鹿島、塩田方面にも売却されたのである。ところがこの和釘に対して洋釘が製造され販売されるに従って、この地区でも漸次に衰亡に傾いていった。こうして明治5年頃より住民は次第に他の町村へ移転し1軒も鍛冶職はいなくなりその後継者は跡を絶ってしまった。この和釘最後の職人は、故北村弥七という。

出典:東与賀町史P1160