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[指定文化財][佐賀市][有形民俗文化財]は10件登録されています。
指定文化財 佐賀市 有形民俗文化財
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鳥類供養塔
重要有形民俗文化財
米納津集落の北東部に御屋敷内と呼ばれ、四方を堀で囲まれ、竹林が生い茂った所があった。この辺り一帯は、多くの鳥類が棲んでいたので狩場となっていた。 鳥類供養塔は、狩猟の犠牲となった鳥類の霊を慰めようと享保14年(1729)2月28日に、鳥類殺生の業生転滅をはかって建立された。業性転滅とは、鳥類はそのままでは回向できないので、鳥類の業性を転滅した後に回向をする意味だという。 八角形の基礎石の上に建てられた石幢形の塔で塔身は八角柱であるが、幅が長短あって方角柱の面取りを強くした形態である。笠の平面形は六角形で、勾配は波形、上に宝珠がついている。 碑文は、「鶴、白鳥、鴈、大小鳥類壱万二千六百余之霊魂、業生転滅」とあり、大乗妙典を読誦すること百五十部、過去、現在、未来の三千佛の御名を唱えること3日間、経文を一石に一字づつ書写して供養するという意味の一文が刻まれている。 昭和63年1月31日に圃場整備事業のため現在地に移設された。
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有蓋類形板碑(鳥獣供養塔)
重要有形民俗文化財
杉神社の鳥居と道路を距てた杉林の中に立っている本碑は、県下に10数基ある鳥獣供養塔の中でも最古の在銘碑である。塔形は方盤の基礎の上に板状梯形の碑身を立て、寄棟造りの笠蓋を頂くもので、類形板碑の一種で、総高130.5センチメートルである。 碑身の上部に四角の浅い龕を彫り、中に如来形坐像を浮彫り、その下に三行銘を刻み、下部に鳥、鹿、猪の三鳥獣を線刻で描いたものである。 銘は 従十八歳至五十歳猟師山本軍助 山本軍助利恭 慶長十七壬子年十一月 とある。本碑の造立には伝説が伴う。 山本軍助の祖先は、山内の城主神代氏に仕える武士であったが、軍助は猟師となって、十八才の頃から狩猟に専念し、猪百頭を仕止める志を立て、五十才にして既に九十九頭を射止め、あと一頭で念願達成という時、物の怪に悩まされ、殺生の罪深きを悔悟し、一念発起して仏道に入り、これまで殺傷した鳥獣の供養塔を建てて、その霊を弔ったのが本碑であると伝えられる。 同類の供養塔中最古の在銘碑として貴重であり、供養対象とした鳥獣を描画している点でも希少の存在である。
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六尊六地蔵塔
重要有形民俗文化財
詰瀬集落の路傍、石垣積みの上にあり、総高118.0センチメートルで、基礎、竿石、中台、塔身、笠蓋の五石で構成されている。 塔身を、上下各6区に分ち、その中に上段に六尊坐像、下段に六地蔵の立像を彫り出したもので、上下12体の尊像が彫られている。つまり輪郭が12の仏龕(ぶつがん)が形造られており、その中に像が彫りだされている。地蔵尊像は通例の六道巡錫の姿であるが、六尊像は、損傷が多く、明確に像の種別を判じかねるが印相には合掌、上品上生、施無畏、与願のものなどがあるように見受けられる。無銘であるので造立年代は詳らかでないが室町中期頃と推定される。 六尊六地蔵塔の多くは丸彫式の造塔であるが、本塔は仏龕式の方式に造形されている唯一の遺物である点で貴重である。
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虫供養塔 一基
重要有形民俗文化財
虫供養塔は、江戸時代全国的に行われた五穀豊穣を願って水田に発生した害虫を、村境の川や海まで送り出し、虫の霊を鎮め祭るという農民の素朴な祈りの行事のなかで建立されたものである。 『肥前聞書』に「毎年六月に虫供養風祭と申す事有之、其の入用高は相定り居候て、年貢の内より兼て取分被置候、其の節惣郡百姓中於屋宅酒食被下置候」とあり、県内においても虫供養が催されていたことが知られる。 塔は、方形基礎石上に建てられた高さ2.2メートル、長径0.56メートル、短径0.51メートル、厚さ0.3~0.36メートルの短冊形塔である。 碑面には次のように陰刻されている。 嵩 貞享二乙丑歳十一月十九日 謹奉讀大乗妙典壹萬部 為 五穀満田虫供養成就 碑表の下部に、深町村・北島村・扇町村など嘉瀬郷の村名と施主名が記されている。 貞享2年(1685)に各村々の祈願により建立されてものである。 当時の信仰風俗を知るうえで、県内唯一の虫供養塔として極めて貴重である。
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石造恵比須半跏像 一躯
重要有形民俗文化財
佐賀市内は、全国的に見ても恵比須像が濃密に分布している所として注目されており、恵比須像は、佐賀市の石像を代表するものの一つである。 商家では福徳神として恵比須を祭り、商家が栄えた宿場町など街路端に奉祠されている。 この相応津も漁場豊かな有明海へそそぐ本庄江に面し、かつては漁港としてまた商港として発達した津で、今日でも数多くの恵比須が祀られている。 この恵比須像は台座を含め座高58センチメートルで、鯛を左脇に抱き、右手を前に曲げて竿を執る態をなし、全体的に破損も少なくよく完構を保っている。 制作年は享保9年(1724)で、現在造立銘の判明している恵比須像のうち市内で最古のものであり、その価値が高い。
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木造河童像 一躯
重要有形民俗文化財
宗眼寺は、支藩蓮池鍋島家の菩提寺で、初代藩主鍋島直澄の霊屋がある。 河童像は霊屋の向拝の虹梁(こうりょう)の上におかれ、棟木を支えており、蟇股(かえるまた)又は束の機能を果している。河童像は、両足を立てて尻をおろした坐像で、像高23センチメートル余り、寄木造の彩色像である。眉毛は太く、眼は彫眼で大きく開き、正面を見すえている。毛髪は両側のみに巻毛を刻み、鼻は太く、口は閉じ2本牙を出し、首を前にのばして顔面を突き出し、背中を丸めている。両肘を屈し、高く上げて力み、両手はそれぞれ膝頭におき、手足には比較的大きな爪を刻み、褌(ふんどし)をしめている。体部は黒色、眼は金色で口、鼻、耳の内側及び褌には赤色が施されている。右足の指が欠失しているのみで保存は良好である。 彫像の年代は明らかでないが、江戸時代の作であると考えられる。また、霊屋にこの像が置かれた理由も不明である。小躯ではあるが河童の性格をよく表現した像で、江戸時代における特色ある彫像の一つとしても価値がある。この種の河童像が市内に数躯伝存しているが佐賀地方の風土が育んだ河童伝説に基づく遺物の代表的なものの一つとして、民俗学的な価値も高い。
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旧城下町の道標 一基
重要有形民俗文化財
江戸時代には、街道又は脇街道などの主要幹線道路が整備され、街道には一里塚あるいは道標などが設けられて、陸上交通は著しく発達した。 この道標は、長崎街道に設けられた道標の一つで、佐賀城下の長瀬町から長崎街道をそれて、南の諌早渡海場へ通ずるその分岐点に建てられていた。 安山岩製の方柱の上端は、しのぎがあって山形に削られていて、地表からの現高は約122センチメートル、幅は21センチメートルで、方柱の二面に方向が刻まれている。 方柱の上端に一指をのばした手を刻んで方向を表示し、その下に行先の地名が刻まれている。手はまわりを彫りくぼめて浮彫りにし、文字は平仮名を用いて陰刻している。 一面には、「ながさき道、こくらみち」と、2行に、他の1面には、「いさはやとかいばへ」と1行に刻まれている。 この道標が設けられた年次は明らかでないが、その様式からみて江戸時代の中期以降にくだるものであろうと推定される。 江戸時代の街道は、そのほとんどが改変され、一里塚や道標もほとんど姿を消してしまった今日、原位置近くに現存しているこの道標は、往時の交通資料として注目すべき価値を有するものがある。
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石造えびす坐像 一躯
重要有形民俗文化財
えびすは、大黒天とともに福神として、近世以来広く信仰されており、二十日えびすなどの民間行事が今も行われていることなど、えびす信仰が庶民生活に深く根ざしていることを物語るものであろう。 石像えびすは、一般にかつて商家が栄えた宿場町などの街路端に奉祠されていて、佐賀市内にも数多く祀られており、半跏像の外に算盤や大福帳を持ったえびすなど種々変化に富んでいる。 この西宮社のえびす像は、えびす(蛭子尊・事代主神)を祭神とする県内に数少ない神社に奉祀されている石像で、製作者は明らかでないが、江戸時代中期の享保16年(1731)という石造えびすとしては県内における古い作例のひとつである。岩座を含めて像高は63センチメートルで、左手を軽くまげて鯛をかかえて、右手も軽く前にまげて竿を執る態をなしている。竿を失しているが、像には欠失や破損部分などが少なくて、よく完構を保っており、他に例を見ない誇張性の少ない表現や均整のとれた福神の相など石造彫刻としても注目すべきものがあり、また、えびす信仰を知る民俗的な遺例としてもその価値が高いものである。
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木彫彩色婦人坐像(観世音胎内仏一躯)
重要有形民俗文化財
川久保(佐賀市久保泉町)の邑主であった神代直長の娘、成姫は、本藩2代藩主鍋島光茂の養女となり、白石(しらいし)(三養基郡みやき町)の邑主鍋島直弘の嗣子鍋島直氏(又は直紹)に嫁したが、難産のため18歳(延宝4年〈1676〉8月10日)で死亡した。このため、直長は成姫のめい福を祈って慈音院を建立し、成姫の坐像を刻んで本尊観世音像の胎内に納めた。しかし、このことはいつしか忘れられていたが、明治年間に寺の裏山からの火災で、本尊を避難させたとき本尊の胎内に物音がしたので調べてみたら木像が安置されていた。これが成姫の像で、婦人坐像に彫像されており、現在は本尊とともに安産の仏として信仰されている。 製作の年代は、延宝4年(1676)以後1~2年問と推定される。像高は21センチメートルで、小さな人物像にすぎないが、県内には婦人像はほとんど他にその例がなく、江戸時代前期の若い武家婦人の風俗をそのまま伝えているものとして価値がある。
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掘江神社神像群
重要有形民俗文化財
掘江神社の創建は明らかでないが、日本武尊や神功皇后にまつわる地名説話の社伝がある。 この神像群には、一国一社の国名神号が墨書されている。これは後宇多帝が蒙古との合戦のとき、戦勝祈願のため納められたものと伝えられている。 神像はすべて一本彫製の木造で、千栗・河上・当社の肥前三社の神像を除き、顔面のみを現わして体部は円筒形に彫り放した実に素朴な彫像であって、像高20~25センチメートル、坐像か立像かも判明しない。神像群の総数は、68像が保存されている。すべてに墨書があり、神名や全国六十余州の国名などが記されている。クスノキの枝を丸彫りしてつくったもので、一部には表皮がのこり、大きく干割れているものもある。 肥前国の3体の神像(掘江大明神像、河上大明神像、千栗八幡大菩薩像)は、他の神像より丁寧につくり、永正8年(1511)の製作年と作者元笠の名が記されている。専門的な技巧をこらしたものではないので、作者の元笠は職業的な仏師ではないと推測される。 当時の民間信仰を知る格好の資料で、全国各地の神仏を一箇所でつくったものとしては、貴重なものである。