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[指定文化財][佐賀市][赤松校区]は8件登録されています。
指定文化財 佐賀市 赤松校区
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石長寺中興記碑(1基)
重要文化財
石碑は安山岩製で「石長寺中興記」の碑と亀趺という亀形を呈した台座からなる。文字は頂部に横書きで、表面に「石長寺」裏面に「中興記」を刻み、その下に縦書きで表裏ともに1行47文字で15行の文字を配する。 台座の亀趺は南向き(旧位置図では東向き)で、頭部を欠損している。亀趺は、現在までのところ、佐賀県下で約20例が知られているが、この「石長寺中興記碑」と多久市西渓公園内にある「大宝聖林■萬古長春石」碑以外は明治期のものであり、享保14年(1729)銘の「石長寺中興記碑」は正徳5年(1713)銘の「大宝聖林■萬古長春石」碑に次いで古いものである。 なお、「石長寺中興記碑」は石長寺境内に置かれているが、道路拡張により原位置ではない。 【銘文の内容(概要)】 医王山石長寺の創建時期や開山開基については不明である。中古に明室心光大姉(龍造寺隆信の妹)が中興したが、今は大姉の墳墓・霊碑が残るのみである。近年再び荒廃していたが、豪商柿久良悦が私財を投じて堂宇・庫裏・山門を新築し、本尊を補修するなどして石長寺を再興した。また、境内に法華経一万部読誦の回向塔や石造地蔵六体などを造立した。 「石長寺中興記碑」は、明室心光大姉、柿久良光・良悦、石長寺の略歴についてのほぼ唯一の資料であり、戦国時代末期から江戸時代中期にかけての佐賀の歴史を知る上で貴重な資料である。 また亀趺は、近世初頭に日本に伝わった石造物の洋式であり、本例は県下で最初期、全国的に見ても早い時期のものである。
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万部塔と六地蔵
史跡
万部島は、かつて、佐賀城の東堀と多布施川に囲まれた文字通りの島であった。城内から舟で、あるいは裏御門を通り向陽軒(東屋敷)から陸伝いに参詣するようになっていた。 万部島には数種類の石造物が建立されている。 万部塔は、佐賀藩の代々の藩主又は、嫡男が自ら願主となって「国家安泰・万民安楽」を祈願しての法華経一万部読誦の結願石塔11基が整然と並び建っている。その形式はすべて同じで、台石、蓮華台、棹石(上部三角)の四部分から構成され、高さはもちろん、問隔礎石の大きさに至るまで、まったく同じ形状寸法である。 現在は塔群のみであるが、かつては万部堂仁王門など付設してあったと伝えられている。 万部執行は、近世に入って各藩で行われていたが、佐賀では鍋島以前、龍造寺山城守家兼(剛忠)が、永正2年(1505)3月、天亨和尚(剛忠の弟で水上山万寿寺の僧)を導師として野田石見が奉行となって執行したのが最初である。 鍋島氏になってから初代藩主勝茂が、かつて脊振千坊の流れをくむ金乗院(天台宗、吉野ヶ里町目達原)の玄純僧正に「国家安全と万民安楽の道」をたずねた折、僧正は「法華経一万部の読誦による功徳は限りないものがある」と即答したことによってはじめられたと伝えられている。名代の藩主又は嫡男が1基あて建立しているが、藩主自ら願主となっての祈梼法要は領民との融和を図るのに大きな役割を果たしたと思われる。 また、龍造寺家兼(剛忠)ゆかりと伝えられる六地蔵2基が現存している。 南側の六地蔵は、高さ1メートル60センチ内外で竿石の中央に「天文弐暦十一月廿八日」とあり、「願主権大僧都弁仁 大工亦七郎」と刻まれている。通例の形式の石製六地蔵である。笠石は二重の四角形で両角の部分が角瓦をおもわせるような耳付をみせている。 北側の六地蔵は南側よりも全体が高く、台石から笠石まで2メートル50センチ内外で、礎石を兼ねた下部の支柱と台座を支えている上部の竿石からなっており、その上に台座と蓮華台がある。塔身は、尊像が上下二段に刻まれており、下段は立像の六躰地蔵で、地蔵列の肩上にさらに並列する六軀の彫像があって六角形の笠石がその上にかぶさっている六尊六地蔵塔である。 竿石の中央には、「天文二二年乙未霜月七日 大周壽成建○」と刻まれているが、全体の摩滅が激しく判読しにくい。 (写真:鍋島報效会提供)
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龍造寺隆信誕生地
史跡
肥前を代表する戦国大名、龍造寺氏は現佐賀市城内一帯の小津東郷龍造寺村の地頭から、戦国の争乱の中で次第に東肥前地方に勢力を伸ばしてきた。明応の頃(1492〜1501)に、本家の村中龍造寺家と、分家の水ヶ江龍造寺家とに分かれて、群雄に対する防備を固めた。 龍造寺隆信は、享禄2年(1529)2月15日水ヶ江城東館天神屋敷で生まれた。天文5年(1536)7歳のとき宝琳院(ほうりんいん)に入って出家し、円月と号し、また中納言と称した。 天文15年(1546)3月、曾祖父龍造寺家兼(剛忠)が93歳で死去した。家兼の遺志により、中納言は還俗して胤信(たねのぶ)と称し、水ヶ江龍造寺家を継ぎ、翌々年の天文17年に村中龍造寺家も継いで、龍造寺宗家の当主となり、山城守隆信と称した。 肥前・壱岐・対馬・筑後を平定し、肥後北部の諸将を従属させ、西筑前の九郡と豊前の北半を領有し、天正8年(1580)ごろ、五州二島の太守と称され、竜造寺氏の全盛時代を築いた。 誕生碑のかたわらに胎盤を納めた胞衣塚(えなづか)がある。形状は高さ1.10メートルで、1.90メートル四角である。
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赤松小学校の校務日誌 一括
重要文化財
赤松尋常小学校は、明治41年(1908)に創立され昭和16年(1941)の赤松国民学校を経て、昭和22年(1947)に佐賀市立赤松小学校となって現在に至る。創立時には佐賀高等小学校及び市議会の一室をもって仮校舎としていたが、明治22年(1889)に佐賀城本丸跡の東半部に市立佐賀商業学校の新築完成後、西半部に新校舎を建て、平成5年(1993)までこの地に存続した。 この赤松小学校には、創立からの校務日誌が保存されている。日誌は墨書、ペン書き、ボールペン書き(鉛筆書き)と時代を追うごとに変化しているが、そこには校内の行事を中心に、当時の学校生活の内容が記されている。また、行事関係だけではなく、その時代の状況も推しはかられる記事があり、佐賀市の近現代の歴史を垣間見ることができる。 例を挙げれば、大隈重信や伊藤博文の死去に際しての学校としての対応、昭和大恐慌時の古賀銀行休業に関する人身動揺に対しての学校としての対処、戦時下の空襲の状況などがあり、校務日誌のなかにも所々に社会情勢が反映されている。 この日誌は、学校教育の歴史を物語るものとしてだけではなく、佐賀市の近現代の歩みを知ることのできる資料として貴重である。
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絹本着彩与賀神社縁起図 一幅
重要文化財
与賀神社縁起図は、延宝6年(1678)に佐賀藩2代藩主光茂夫人から奉納寄進されたものである。絹本着彩天地2.17メートル、幅1.65メートルで、筆者は永松玄偲である。 社伝にもとづき、神を感知してから社を創建し、御神幸が行われるまでの過程を、物語風に展開した画面構成となっている。画題は建物・人物・山川・樹木の4種からなり、人物をはじめとして、描写は細密で、画面の構成も整っており、大和絵風に描写されている。 筆者の永松玄偲は、佐賀の画家永松秀精の父で、子秀精は源左衛門と称し、元鍋島弥平左衛門の家臣であったが、寛保2年(1742)に絵師として本藩に召しかかえられたと伝えられる。
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有田家文書 九〇通
重要文化財
有田家の出自と歴代については明らかでないが、有田家に伝来している有田系図によれば、松浦氏の祖とされている久に出て、12代ののち政に至り、さらに次のような世代を経て茂成・紀に至っている。 政―親―盛―茂成―紀 茂成は龍造寺隆信の弟龍造寺信周の子で、家名を有田と改めた。鍋島氏に仕え、寛永2年(1625)7月7日死去した。紀は寛永5年(1628)の着到によれば知行1700石を領している。 文書は鍋島直茂以下、勝茂・忠直・光茂・綱茂等を始め、勝茂夫人高源院などの書状(手紙)や覚書類のそろっていることが有田家文書の特色である。 殊に勝茂の書状、覚書は慶長初年(1596)から明暦年間(1655~1657)にわたって総数38通に達し、佐賀藩の歴史を明らかにする上に価値の高い資料である。
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旧佐賀城本丸御座間・堪忍所
重要文化財
佐賀市水ヶ江三丁目の大木公園内にあった南水会館建物は、佐賀城本丸跡の佐賀市立赤松小学校「作法室」を、小学校の改築に伴って昭和32年(1957)に移築したものである。 赤松小学校は、明治42年(1909)佐賀城本丸跡に開校し、当初は鍋島家から佐賀市へ寄贈された既存建物を校舎として利用していた。これらの詳細は判然としないが、南水会館として移築された建物は、他のものが解体されていく中、最後まで残存していた建築物であり、当時の小学校校舎平面図と天保期の本丸建物を描いたと考えられる佐賀城御本丸差図を比較すると、藩主の日常の居問である「御座間(ござのま)」がこれに当たると考えられる。 この建物は、小学校時代は「御居間(おいのま)」と呼ばれて「永久保存建物」として使われてきた。詳細は不明ながら、大正10年(1921)と翌11年に修理を実施し、昭和14年(1939)には「郷土館」として利用されることになった。しかし、昭和32年(1957)に大木公園に移築されるまで、大規模な改変を受けることなく残存してきたようである。これは、当時の赤松小学校教員によって、移築時に作成された「御居間模型」(縮尺20分の1、赤松小学校保有)や、残存写真から確認されている。 大木公園への移築は、昭和32年に着手し、翌33年3月29日に完成している。移転を手がけた大工棟梁からの聞き取りによると、敷地の関係で1間ほどの桁行きを縮め、玄関を設けた外は、基本的に部材の移動をせず、小学校時の姿に復元したとのこと。ただし、内部は公民館としての利用を考慮し、床棚周りを廃し、舞台を設け、部屋間仕切りを撤去又は新設している。その後、南東角の控室北面両端下屋部分を増築し、現在の姿となっている。 この南水会館建物については、上記状況から、これまでも天保9年(1838)再建の佐賀城本丸御殿「御座間」であると推定されてきたが、佐賀城本丸歴史館建設に係る詳細調査により、その確証が得られ、より詳細な状況が明らかとなった。 まず、小屋裏及び床下の複数の箇所に「御座問」の墨書が発見された。また、玄関の小屋部材から「堪忍所(かんにんどころ)」の墨書も発見し、御座問とその東側の堪忍所が移築残存していることが判明した。番付には方位を含むものあり、これにより本丸にあった状況と現状は方位が180度入れ替わっていることも判明した。さらに、小屋裏には、「御座間」「堪忍所」と同一の筆と見られる墨書番付ともう一組の番付があり、前者が創建時番付、後者が解体時番付であることが確認できた。小屋裏の状況は、先の大工棟梁の言葉どおり玄関部分、つまり旧堪忍所部分が部材切断、部材移動が著しく、他の部分は桁行きの番号を除き、ほぼ旧状どおり丁寧に再用しているのが確認された。その他、残存する痕跡を根拠として、御座間、堪忍所の平面が復元され、柱をはじめ部材位置の大きな変更がないことが確認された。一方、赤松小学校の「御座間模型」により、失った床棚周りなど、室内形状が推定された。 以上を総合すると、南水会館建物は天保期本丸御殿御座間・堪忍所の遺構として貴重な存在であることが改めて確認された。近世城郭の御殿遺構は、二条城二ノ丸御殿書院群{国宝 慶長8年(1603)}、掛川城二ノ丸御殿{重要文化財 安政二年(1855)}、川越城本丸御殿{埼玉県重要文化財 嘉永元年(1848)}、福井城本丸御殿大奥小座敷・御座間(福井県重要文化財 天保2年(1831)}など、全国的に見ても現存例は少なく、その点からもこの建築物の建築史的価値は大きい。 御座間・堪忍所と同時期に建築された佐賀城現存建築物は、重要文化財「佐賀城鯱の門及び続櫓」しか確認できるものはなく、御殿建築物としては唯一のものである。また、藩主の日常生活の場という重要な機能を果たしたものであるにもかかわらず、比較的質素なたたずまいを有し、幕末・維新期の気風や社会的状況も伝えているところなど、佐賀市に残された幕末・維新期を代表する建築物として高く評価できる。 なお、南水会館建物は、平成13年9月に解体され、佐賀城本丸跡で本来の位置に御座間・堪忍所として移築・復原工事が行われ、佐賀城本丸歴史館として公開されている。
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武家屋敷の門 一棟
重要文化財
元来、門は出入りする者の身分によって格式があり、上位から四脚門、棟(むな)門、唐門、上土(あげつち)門、薬医(やくい)門、平門、冠木(かぶき)門等の順に定められていた。 この門は、元鍋島家の家臣水町氏の屋敷門として、多良の名工、託田の番匠の手によって建築されたと伝えられている3間1尺の薬医門である。 もともと、薬医門は医師の門として使われたもので、病人の出入りを妨げないように門扉はなかったらしく、後に公家、武家の屋敷等に使われるようになってからつけるようになった。 四角な本柱4本を前方に、控柱2本を後方に立て、その上に切妻屋根を置く。側面から見ると、棟は本柱の真上より後方にずれているのが薬医門の特色である。屋根は本瓦葺で破風には、かぶら、懸魚(げぎょ)その両側に鰭(ひれ)が装飾されている。 軒裏は、棰(たるき)、野地板とも化粧に仕上げられ、裏側の一部には鏡板の軒天井が張られていて、肘木の先端には繰形彫刻が施されている。扉は両開板戸が吊ってあるが、これは後になって取り換えられたもので、当初は引き分けの板戸が建て込まれていた。なお、平成20年度の解体修理で、扉は引き戸に戻した。 用材はすべて欅(けやき)が使われている。建設年代は不明であるが、構造形式から江戸後期と推定される。永い期間風雨にさらされ、本柱や控柱の脚廻りの損傷が処々にみられる。しかし、屋根瓦は幾度か葺き替えられたらしく、棰や野地板の損傷はほとんどなく、普段の管理が行き届いているので脚部を除いた小屋組、軸組材はほぼ原形のまま保存されている。 昭和45年の道路拡幅の折、3メートルほど東へ移設されている。 桃山、江戸と時代が変わるにつれて建築方法も華美に流れていく中で、特に質素を旨とした当時の佐賀藩の気風を表現したこの門は、簡素で均整のとれた風格を備えた武家門として価値が高いものである。