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[指定文化財][佐賀市][諸富町]は20件登録されています。
指定文化財 佐賀市 諸富町
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大堂神社楠№2
天然記念物
大堂神社は、自然林に囲まれており、クロガネモチ・クロマツ・アラカシ・スギ・ヒノキ・ハゼノキ・イヌマキ・クヌギ・チャノキ・エノキ・ネムノキなど種々の樹木が茂っている。 その中にある楠は、多くの木々や竹に囲まれて、境内左隅の堀のすぐそばにある。 地上から数メートルのところから、幹は大きく四つほどに分かれ、四方に枝葉が繁茂している。佐賀県名木古木に指定されており、推定樹齢は250年、樹高15.0メートル、幹回り5.65メートル、枝張り21.5メートルである。
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えの木№1
天然記念物
えの木が自生する新川河口付近は古くから国内、国外の海上交通の要所として栄え、江戸時代には河口付近に緊急時の佐賀藩の兵糧等を貯蔵した蔵が建てられた。 新川のえの木群は、大型の船舶を繋ぐために利用されていた。何本ものえの木があったが、台風による倒木や河川改修工事により伐採されて、現在は1本のみ残っている。推定樹齢150年ぐらいといわれている。
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大堂神社楠№1
天然記念物
神社には社殿を囲むように鎮守森が存在するのが普通である。暖帯の低地では、クスノキ、アラカシ、クヌギ、スギ、ヒノキなどを主とした森林が多い。特にクスノキは佐賀の神社の象徴として大木が多い。 大堂神社にも数本の楠の木がある。佐賀県の名木古木に指定されている1本は神社拝殿の右前にあり、推定樹齢900年で、樹高20メートル、幹回り5.65メートル、枝張り21.5メートルである。
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新北神社楠木№1
天然記念物
新北神社の鳥居をくぐり門を入ると、拝殿前の右側に老人のように腰を曲げ杖をついたクスノキが目に飛び込んでくる。主幹は、地上3mほどからほぼ直角に幹を曲げ、その上から数本の枝幹を放射状に伸ばしている。 地上より3メートル付近まで、幹の背中は縦に割れ中は空洞になっているが、枝幹のあちこちからは力強く青葉が塊となって噴き出している。さがの名木100選に指定されており、推定樹齢は1,600年、樹高23メートル 幹廻り4.9メートル 枝張り24メートルである。
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新北神社楠木№2
天然記念物
楠の木は、佐賀の地名の由来にもなっている木で、県木、県花であり、特に神社の境内に多い。新北神社には古木が多く、社務所の右横にある楠の木は、地上数メートルほどのところから幹が大きく二つに分かれ、四方に枝葉が茂っている。佐賀県の名木古木に指定されており、推定樹齢300年、樹木の大きさは高さ18.6メートル、幹廻り3.75メートル、枝張り18.0メートルである。
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太田の浮立
重要無形民俗文化財
太田神社で5年に一度行われる秋の例祭に奉納される浮立で佐賀平野に伝承する天衝舞浮立の一種で、神輿のお供として従う。道行きの順序は神輿を先頭にモラシ、笛吹き、太鼓、鉦打ちの順で「道行き」を囃しながら従う。神社参道にはいると「長道行き」で神前まで進み、モラシが中央に2列に向かいあって並び、その後に鉦打ちがひかえる。太鼓打ちは謡いにあわせて太鼓を打ち、謡いが終わると神前まで進み神の前の所作を行う。神の前は大太鼓打ちにより本囃子・マクイの順で行われる。マクイには、トートーヘイコ…と続く囃子歌を全員でうたい舞う。神の前が終わると花浮立を数曲舞って打ち込みの囃子にあわせ、神殿を巡って終わる。花浮立を数番行って「打ち込み」の囃子にあわせて神殿を巡って終わる。
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木造不動明王坐像
重要文化財
不動明王は、治病・安産・災害の除去・怨敵降伏・財福を得るなどの広く種々の祈願をかなえてくれるとされた。 この像は、右手に宝剣、左手に羂索(欠)を持つ忿怒形の一面二臂像である。像高 65センチメートル(光背含む 128センチメートル)で、桧の寄木造りで彩色を施し目には水晶をはめこんでいる。像の底に朱書銘があり、京都の仏師の杉伊左衛門により、享保元年(1716年)に造られたことがわかる。
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木造阿弥陀如来坐像
重要文化財
本像は、全高72センチメートル、像高30センチメートルの上品下生(じょうぼんげしょう)印を結ぶ阿弥陀如来坐像である。頭と体は桧の一木造りで、別材の膝や手首先を寄せ合わせている。像の底に墨書銘があり、応永18年(1441)に造られ、川副の寺院に安置されたことがわかる。 光背と台座は別の仏像のもので銘文から、岩蔵寺(小城市)の虚空蔵菩薩像のもので元亀4年(天正元年・1573)に製作されたことがわかる。
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木造阿弥陀如来立像
重要文化財
光専寺は、肥前国最初の真宗道場と伝えられ、清和源氏の竹田刑部小輔太郎信重を祖とする甲斐民部大輔神四郎(教明教師)により建立されたと伝えられる。 阿弥陀如来立像は桧材の寄木造で、玉眼、漆箔像で像高77センチメートルである。 光専寺の伝承では、浄土教を全国に広めた源信僧都の作と伝えられているが、鎌倉時代の専門仏師の作と考えられる。胸が厚く優美に流れた衣は、快慶様のたくましさと繊細さがうかがわれ、来迎引接(らいごういんじょう)の姿をとり、西方浄土にあって大悲による永遠の救いをする阿弥陀如来の功徳をあらわしている。
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天女絵柄半鐘 一口
重要文化財
通常、口径1尺8寸(約54.5cm)以上のものを梵鐘と呼び、それより小型のものを半鐘という。(別の説もある)。この半鐘は、寛文11年(1671)に植木善兵衛が東光寺のために製作したことが銘文からうかがえ、総高46.3センチメートル、外口径は30.4センチメートルを測る。善兵衛鐘によく見られる天女(吹笙飛天)の絵柄が陽鋳されていて、植木(樹)善兵衛正住は江戸時代前半に活躍した佐賀の鋳物師で、およそ50個の鐘が県内各地の寺院などで確認されている。
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一木七仏薬師如来立像 一躯
重要文化財
東光寺の開基は明らかでないが、寺伝では天平年間(729〜765)川副七仏薬師の1体をまつる薬師堂に始まるといわれている。 薬師如来は東方にある極楽浄土瑠璃光世界の教主で、修業中、十二の大願をたてた。このことから万病を癒し、人の寿命を延ばし、医薬をつかさどる仏として古くから信仰された。 東光寺の薬師如来は、像高は137.5センチメートルで左手首が破損している。 寛文5年(1665)大木惣衛門が著した『肥前古跡縁起』によると、「川副庄に伝わる一木七仏薬師如来は、行基の作で、仏教の普及により安泰を願っていた聖武天皇の勅願により楠木の一木を使い七体の仏像をつくりこの地に納めた。一仏より七仏まで詣でることにより、その霊験があらわれると多くの人から信仰を集めた。」と記されている。
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六地蔵 二基
重要文化財
地蔵が六道を輪廻転生する衆生を救済するということから、六つの分身を考えて六地蔵として信仰することは平安時代末期に始まったといわれる。本県内に遺存する石像物を通してみる限り、地蔵尊は室町時代前期に現れ、後期に著しく造立されている。室町時代の地蔵信仰は造立銘より、その大部分は個人信仰であったことは明らかであるが、後期になると信仰を同じくする集団である講の発生を見るに至っている。 多聞院の六地蔵は、方柱形の二本継の竿石の上に中台をのせ、その上に尊体を安置し、宝珠のついた屋根形の笠石をのせた六地蔵の基本形式である。一般的には時代が下ると中台の側面の蓮華文が消滅する傾向がみられる。 195センチメートルの六地蔵には蓮華文が残っており、笠石は六角形である。また竿石には二体の半肉彫像が彫られている。 150センチメートルの六地蔵には蓮華文がなく、笠石も円形である為やや時代がくだる可能性がある。寺院の門前や墓地の入口に一般的に見られるようになったのが室町時代後期からであることから、そのころの造立と推定される。
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一石五輪塔
重要文化財
五輪塔は、仏教で言う地・水・火・風・空の五大をあらわすものとし、主に供養塔・墓塔として使われる仏塔の一種である。本来、五輪の各部を別石で造るのが一般的であるが、全体を一つの石で彫り出した様式を一石五輪塔という。 大分県臼杵市中尾の嘉応2年(1170)より始まり、一般の五輪塔とほぼ平行して造立されている。しかし、室町時代に入ると小型のものが近畿地方を中心に多出するようになるが、それらは、個人的な信仰色が強く、大きさも60センチメートル前後と小形化し、簡略化されるのが特徴であり、このことは、産地で量産されて搬出されたとみることができる。 多聞院の一石五輪塔は、総高91センチメートルで、一石五輪塔としては大型である。製作年代は室町時代と推定される。
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銅造弁財天坐像
重要文化財
弁才天は古代インドの五河地方の川の女神で農業神として崇崇された。のちに音楽神と知恵の神に転じ、さらに鎌倉時代以降は福徳神の性格が強くなり、七福神の一員に加えられた。 安龍寺の弁才天坐像は、像高57センチメートルで宝冠を被り、輪光背をつけ結跏趺坐をした像である。金光明経に説かれている8臂の弁財天像で、頭頂には鳥居と人頭蛇身の宇賀神を置き、宝珠と輪宝と雲文であしらった宝冠をかぶっている。髪にかかる前髪は耳の中ほどを通して後部の髪とまとめ、冠紐とともに両肩に垂れかかる。面相は福神にふさわしく弧を描く眉は三日月形に眉尻を下げ、目を細め、口元をゆるめて微笑する。 体部についてみると、8手のうち右側4本の手には宝剣、宝箭(ほうせん)、宝棒、羂索(けんさく)、左の4本の手にも宝珠、宝弓、輪宝、宝斧の順に持物をもたせている。両肩前に各1ヵ所、腹前に各1カ所、腹前にはくくった腹帯に沿って3ヵ所に瓔珞(ようらく)を懸け、体をにぎやかにしている。 本像の鋳像技術は確かで安定しており優れたできばえを示している。近世の鋳銅像はその殆どが戦中供出されて遺例が見当たらず、当時の信仰は勿論造像の技術について知る機会を得なかった。本像はそれを知る資料として貴重である。
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太田神社肥前狛犬 一対
重要文化財
肥前狛犬は江戸時代の前期を中心として製作された石造狛犬である。本県に分布する肥前狛犬の特徴は、一般的に小型であって極めて静的であり、弧線と直線とをもって大胆に造形されている。前肢を立て、後肢を前へ伸ばした側面観は四分の一円周に近く、正面観は長方形に近い。頭髪・尻尾などの細部の表現を省き、四肢と胴体の間は材石をそのまま残して、四肢や胴部の線を浮彫的に彫り出している。このような特色から現在拝殿前に向き合って安置されている狛犬とは基本的に性格が異なり、木造狛犬のように、神殿内に拝殿の方へ向け並列して安置されていた屋内狛犬であったと考えられているが、太田神社の狛犬は、肥前狛犬としては、比較的大きいものである。 像高は、雄57センチメートル、雌50センチメートルで、銘はなく製作年代は不明である。
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大黒天坐像
重要文化財
大黒天は、インド・中国では古くから寺院の守護・豊饒をつかさどった神であった。わが国でもはじめは護法善神として食堂に祀られていたが、近世以降はえびすとともに福神の代表的な存在となった。その像容は、左肩に大きな袋を背負い、右手に打出の小槌を持って米俵の上に立つのが一般的である。 大黒天は、農村地帯では甲子待の主尊とされ、甲子講中の造立が多く、県内でも旧十一月子の日に二股大根を供えて祀る風習がある。大黒天の造立の目的はほかに福神信仰に基づく造立もある。また、社寺の境内に置かれるなどして寺社が造立に関与している場合も多い。 像高は、78センチメートル、台座まで含めると1メートル10センチメートルである。 台座の銘文に、 天保四癸巳年二月吉祥日 當庵四世徳壽院〇〇 とある。この銘により天保4年(1833)に建立されたことがわかるが、宝光院における由来は明らかでない。
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道祖神「なんじゃもんじゃさん」一対
重要文化財
安龍寺の境内に一対の男女像の石像が祀られている。夫婦像といわれ、男性像は銚子と杯を持っている通称「な(あ)んじゃもんじゃさん」といい、女性像は右手を上げ、左手は印らしきものを結んでおり通称「銭(ぜ)んがないさん」という。夫が「酒買うてこい」と言うと、妻は左手の指で円をつくり「「銭んがない」と突っぱねていると地元では伝えられている。男性像は像高71センチメートル、女性像は像高72センチメートルで、制作年代は江戸時代と推定される。
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肥前鳥居 一基
重要文化財
肥前鳥居は、室町時代の末期から江戸時代初期にかけて多く造られた。その特色としては、笠木と島木が一体化していて、木鼻が流線形にのびている。笠木・島木・貫・柱の各部分が継材となっていて、原則的には、各部分が3本継ぎになっている。柱の下部に亀腹を設けず、柱の下部を削り出して、生け込みになっている。柱の上部には、台輪をつけ楔を設けないなどがあげられる。 若宮神社の肥前鳥居は、総高211センチメートル、笠木320センチメートル、貫290センチメートル、柱間の幅145センチメートルで銘文はないが、額は「若宮神社」と彫られている。 肥前鳥居の特徴である各部分の三本継ぎが柱には見られず、極端に低く貫下が153センチメートルしかない。亀腹が見られることから上部の二本が破損して低くなったという可能性がある。貫は事故のために破損したため、昭和58年に修復された。
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肥前鳥居 一基
重要文化財
肥前鳥居は肥前を中心として、その周辺の福岡県の一部などに分布している独特の構造と形式を有する石造鳥居である。特色として、島木と笠木が一体化していて、木鼻が流線型に伸びていること。笠木・島木・貫・柱の各部分が継材となっていて、原則的には各部分が三本継ぎになっていることなどがある。 新北神社の参道には4本の鳥居があり、この肥前鳥居は神門の前に立つ。額は「新北大明神」とあり、慶長13年(1608)佐賀藩祖鍋島直茂の奉献になるもので、高さ3.80メートル、笠木の長さ4.25メートルである。
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涅槃図 一幅
重要文化財
涅槃図とは釈迦の臨終の情景を描いたもので、陰暦2月15日に釈迦の入滅を追悼して行う涅槃会にこの涅槃図を掲げて法会する。涅槃とは仏陀の教えによって到達する究極の理想の境地で解脱ともいう。 この涅槃図の図様は中央に横臥する釈迦を囲んで、多くの人びとが嘆き悲しみ、また鳥獣までもが悲しみの姿態をとっている。その中に釈迦の入滅を聞いて、母の摩耶夫人が天界から降下してきた姿が描かれている。 本図は紙本着彩で、縦202センチメートル、横136センチメートルの掛幅装で、画工は平渕子璨璨、裏面に「明治七年二月吉日 河副徳富村東光寺 当時住職 自照代」と記入されている。