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[指定文化財][佐賀県][彫刻]は4件登録されています。
指定文化財 佐賀県 彫刻
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木造阿弥陀如来坐像 一躯
重要文化財
佐賀市久保田町徳万にある王子山三学寺は、承和5年(838)、疫病防除のために、僧仁海(にんかい)が比叡山延暦寺の末寺として開山したと伝える天台宗の古寺である。 三学寺に伝えられる本像は、親指と人指し指を捻じた両手を膝上で組合わせて弥陀の定印(じょういん)を示し、蓮華座に結跏趺坐(けっかふざ)する阿弥陀如来坐像である。 総高は45.8センチメートル。頭体部から蓮華座にいたるまで桧の一材から彫出し、肩の後ろから地付にいたる背板をあて、丸いほぞ四つで結ぎ合わせる。内刳(うちぐ)りは施さず、表面も彩色を施さず素木(しらき)仕上げとする。 頭髪は螺髪(らほつ)とせずに縦に毛筋を刻み、後頭部を省略する。目は上下の瞼を刻むだけで表わして半眼とし、頬骨の自然な膨らみを表現する。体部には厚手の衣を胸前から左腕、左肩、背中を覆って右肩に懸ける偏袒右肩(へんたんうけん)にまとうが、胸前をゆったりと開き、胸や腹部の膨らみをのぞかせている。蓬華座は、素弁を魚鱗葺(ぎょりんぶ)き風に交差させて刻み出す。 以上のように、本像の表現は丁寧ではあるが、たいへん素朴である。これは厳格な規定に従って作られた中央の仏像には見られない特徴でもある。 木造の背中にある墨書によって文保(ぶんぽう)年間(1317~1319)に制作されたものであることがわかった。
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木造薬師如来立像 一躯
重要文化財
中原薬師堂の薬師如来像は、像高161.3センチメートルで樟材の一木造りで、彫眼、漆箔で朱色の衣をまとい肉身は金色に彩色されている。右手を胸前にあげ、左手を垂下して薬壼を持つ。頭・体根幹部を両肩先から袖、足枘枘まで含み一材から彫りだしている。 彫りが深く、きびしい顔立ちは古様を重んじる伝統を感じさせ、天台宗の山岳仏教が盛んであった脊振山系の特徴を、よく表した立派な仏像である。等身大の仏像を1つの木材からほぼ丸彫りでつくり、部分的に内刳りを施している。衣文の彫出は浅く、体躯は扁平につくられ頬が張り、口唇と顎を強調した顔つきは個性的である。 薬師如来像の周りには、十二神将の朔像が並んで薬師如来像を護っている。この朔像の制作年代は不明であるが、薬師如来が祀られると同時に造られお護りをしてきたものと考えられる。薬師如来の手にある薬壺で、体の悪いところを撫でると良くなるという言い伝えもあって、遠くからお詣りする人が少なくない。 薬師如来像は、個性的な作風がみられ、脊振山系の仏教美術を考察する上で重要な作品である。
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無著妙融像 一躯
重要文化財
無著妙融(むじゃくみょうゆう)(1333~1393)は、薩摩大隅の生れで日野氏の出身。諡(おくりな)は真空禅師。肥前万寿寺を経て、紀伊、山城、薩摩の諸寺で修行し、貞治5年(1336)に日向太平寺、永和元年(1375)年に豊後泉福寺、永徳3年(1383)に肥前医王寺、至徳元年(1384)に肥前玉林寺を開いている。道元から数えて七世代目、曹洞禅の全国発展期の僧であり九州各地で活動している。臨済法灯派の禅僧との交流も知られる。 この像は、像高(坐高)66.8センチメートル、檜材を用いた寄木造りで玉眼を嵌入している。法衣の上に八角環をつけた袈裟をまとい、右手に竹箆(しっぺい)を握って椅子に坐す姿である、顔立ちはやや面長で、頬骨の張ったしっかりした骨相である。豊後泉福寺には南北朝時代の肖像彫刻と江戸時代の肖像画が伝えられているが、本像の顔立ちは泉福寺の肖像画に近く、肖像彫刻とは像高や面長など主な法量がほぼ一致する。 像心束、前後束などの構造的特徴から中世の院派(いんぱ)仏師により制作されたと考えられ、製作の時期も玉林寺が開かれた至徳元年(1384)からあまり離れない頃の南北朝時代末から室町時代初と考えられる。 天正3年(1575)、寛文6年(1666)、寛政元年(1789)、明治38年(1905)の修理銘がある。天正3年に本像の修理を行っている心月齋は、京都の仏師で、佐賀市龍田寺、吉野ヶ里町東妙寿、小城市円通寿、白石町福泉寺、唐津市相知町医王寺・妙音寺などでの修理・造像活動が確認されている。 本像の骨太く力強い顔立ちは、曹洞禅の全国発展期に九州各地で活躍した無著妙融の姿をよく伝えている。県内で中世にさかのぼる肖像彫刻は重要文化財の円鑑禅師像(佐賀市大和町高城寺)などわずかしかなく中世後期をを代表する院派仏師のの政策と考えられる。
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木造大日如来坐像 一躯 附 大日如来由来記 一巻、木札 六枚
重要文化財
妙福寺は、臨済宗、東福寺派で開山は円鑑禅師の高弟の大道一以大和尚である。 本尊の大日如来は、定朝様を忠実に受け継ぐ面貌の表現や一木造りの構造からみて、制作の時期は11世紀の後半と考えられる。作風は中央の様式をよく伝えて優れており、半丈六(仏像の大きさの基準となる1丈6尺の半分)の大きさは県内の平安仏では最大で像高164センチメートルである。 また、同寺には本像にまつわる由緒が伝えられており、恵心僧都源信の作とする。伝説的要素が強いものの、本像の制作の背景に天台宗の源信に係わる信仰が係わっていた可能性をうかがわせる点、脊振山系の仏教文化を考えていく上で興味深い。像の背面には鍋島勝茂の名を記す朱銘が残っている。修理の際のものと思われるが、勝茂の信仰あるいは文化事業の一環としてとらえるべきであろう。 本像は平安文化を伝える美術品として優れているばかりでなく、肥前仏像史上でも重要な位置を占めるものと考えられる。