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[指定文化財][国][大和町]は6件登録されています。
指定文化財 国 大和町
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肥前国庁跡
史跡
肥前国庁跡は佐賀市大和町の中心を流れる嘉瀬川左岸の、標高14メートルの自然堤防上に立地する。肥前国庁跡周辺には、国府関連施設と考えられる多数の掘立柱建物群が分布している。正倉群と考えられる建物群(惣座遺跡)や国司の館と想定される建物群(久池井B遺跡)、長大な基壇建物3棟で構成された官衙関連の建物群(久池井六本杉遺跡)が周辺に所在する。また嘉瀬川右岸にも官衙関連の建物群(東山田一本杉遺跡)と郷家関連と思われる建物群(大願寺二本松遺跡)が所在している。この他にも奈良~平安時代の官衙関連遺跡および集落遺跡として左岸では、小川遺跡・北畑遺跡等、右岸では大願寺一本松遺跡・於保三本松遺跡等があげられる。さらに肥前国府と関連する史跡および社寺として大願寺廃寺・肥前国分寺・肥前国分尼寺・印鑰神社・与止日女神社・甘南備神社等があげられる。 肥前国庁跡は、奈良時代後半から平安時代前期(約1250年~1050年前頃)にかけて、古代肥前国の中心となった役所跡で南北約105メートル、東西約77メートルの平面長方形に巡る溝跡と、その内側の築地によって囲まれた空間に、前殿・正殿・後殿が南北中軸線上にならび、前殿の東西両側に各2棟の脇殿を配置している。また正殿の東西には回廊が取りつき、郭内を南北に二分し、南門は築地を内に曲げて八脚門を設けている。 また、政庁域周辺にも国庁の政務を分担した役所にあたる多くの曹司(そうじ)や税を収めた正倉(しょうそう)群が存在した。 肥前国庁の構造は、大宰府政庁との類似性が指摘されているが、行政組織だけではなく、国庁の造営に関しても大宰府のつよい影響がうかがわれる。 出土した遺物は土師器・瓦片・墨書土器等であるが、8世紀後半代と思われる軒丸瓦から肥前国独自の変容が観察され平安時代(9世紀以降)には独自の鬼瓦と瓦文様がつくられる。 国庁の内部が明らかになっている遺跡は、これまでに全国でも数カ所しかなく、きわめて貴重な遺跡である。
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銅鐘 建久七年十一月ノ銘アリ 一口
重要文化財
川上の山麓近くの佐賀平野を一望に見下ろすことができる高所に建つ健福寺は、和銅年間(708~715)に行基が創建したという古刹で、現在は真言宗御室派の寺院である。 鎌倉時代初期の様式をもつ和鐘で、竜頭(りゅうず)は双頭式(そうずしき)で方柱をかみ、鐘身部(しょうしんぶ)は袈裟襷文(けさたすきもん)で4区に区画され、笠形(りゅうけい)をはじめ上・下帯、池の間いずれも無文である。上方4区の乳の間に各4段4列計64個の乳をうえている。 撞座(つきざ)は竜頭の長軸線上にある新式の位置にあって、複弁八葉の蓮華文(れんげもん)である。口径は47.3センチメートルで鎌倉時代の平均口径64.0センチメートルに比べて小型である。総高83.8センチメートル、鐘身高68.0センチメートルで丈長である。乳や袈裟襷文(けさだすきもん)その他竜頭、撞座の陽鋳技術は幾分雑で、全面に肌荒れがしている。 建久7年(1196)の銘文が、中央部分の池の間に線刻されており、鎌倉時代初期の鋳造とわかる。この梵鐘は県下で現存する最古のもので、次期の肥前鐘出現までの遺例として価値が高い。 鐘身に次の線刻がある。 肥前國山田西郷 真手山奉鋳洪鐘壱口 右且為令法久住 且為法界衆生 奉鋳洪鐘矣 建久七年丙辰十一月十九日甲午 満山大衆 定西 睿秀 蓮生 永舜 長勢 良祐 聖舜 大檀那散位笠時貞 鋳師秦末則 伴兼経 笠貞茂 源守直 平助国 伴季忠 藤原道宗 藤三郎 貫首藤原真保 伴兼信 酒井貞経
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金銅宝塔 一基
重要文化財
金銅宝塔は舎利を納置する宝塔である。もとは塔身内部に舎利容器を納置していたと考えられる。総高62.7センチメートル、塔身径は14.3センチメートル。宝塔は、二重基壇の上下・塔身・廻縁および高欄・上層組物・屋蓋および相輪の五部からなり、総体金銅製、一部鍍銀が施されている。 総体は細身でやや長い塔身は時代の特色をよく示すとともに、複雑な上層組物や要所に付された金具類、塔身の四方扉表面や内面に表された蓮華唐草文や八方天の流麗な線刻など、細緻な作りをみせる。 屋蓋の軒の大部分を欠いてはいるが、制作当初のうぶな状態を概ね良好に伝えており、南北朝時代の金銅宝塔の優品として貴重である。
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佐賀県築山経塚出土瓦経 二二九枚
重要文化財
築山経塚は佐賀市大和町大字尼寺に所在する築山公園内の築山古墳上にある。周辺には肥前国庁跡、国分寺跡、国分尼寺跡が位置し、奈良時代から平安時代にかけての肥前国の中心地に造営されたことがわかる。 瓦経は長方形の粘土板に仏教経典を錐やヘラなどで書写し、素焼きしたものであり、末法の時代を迎えた平安時代後期の人々が五十六億七千万年後の弥勒菩薩出現まで経典を残すため、地中に理納したものである。 経塚は横穴式石室をもつ前方後円墳、築山古墳の後円部頂部に造営されている。瓦経及び刀子は経塚内部に築かれた直径約1メートルの石囲い内より出土した。 瓦経の大きさは、平均縦20.7センチメートル、横16.0センチメートル、厚1.0センチメートルの素焼きの粘土板に.界線・罫線をひき、表裏二面に経典を書写する。 書写された経典は、妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)174枚、無量義経(むりょうぎきょう)20枚、観普賢経(かんふげんきょう)18枚、阿弥陀経(あみだきょう)6枚、般若心経(はんにゃしんぎょう)2枚、法華懺法(ほつけせんぼう)3枚、さらに、仏画を刻んだ絵瓦が4枚、無地の瓦が2枚である。 妙法蓮華経巻第一の奥書に相当する瓦経および法華懺法奥書に、天養元年(1144)の銘、ならびに造営に関係した勧進僧・願主・筆僧らの人名も刻まれているものが確認されている。 本経塚出土遺物は、平安末期の人々の信仰の深さや思想のあり方を物語る全国でも極めて貴重な遺物である。これまで全国的には断片的な発見が多く、築山経塚のように瓦経の埋納状況が理解できるのば極めて少な.い。
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河上神社文書(二四七通) 十四巻
重要文化財
河上神社文書は佐賀市大和町に所在する河上神社(与止日女神社)に伝わる古文書で、平安期10通、鎌倉期92通、南北朝期85通、室町期60通の計247通からなり、武雄神社文書とともに、県内の神社文書の双壁といえる。この内、院庁(いんちょう)・大宰府・国衙(こくが)等の関係文書は肥前国のおかれた立場を明らかにし、南北朝関係文書は14世紀の九州の動向を示す、史料として貴重である。 正応5年(1292)8月の「河上宮造営用途支配惣田数注文」は、鎌倉後期に肥前国内における公領(こうりょう)や荘園をその面積(田数)とともに報告したもので、公領の約三千五百町に対して荘園は約一万三千町に及んでいたことなど公領荘園の大概(たいがい)がうかがえる。また、文治(ぶんじ)2年(1186)「後白河院庁下文(ごしらかわいんちょうくだしぶみ)」では、武士化していた在地領主層が共同して皇室領荘園神埼荘を襲い放火、略奪、殺害等を行うなど、源平争覇(そうは)後も先の戦乱中の権益を獲得しつづけようとする新興勢力の武士たちとこれを守ろうとする旧勢力の荘官たちの対立の図式がうかがえる。 これらは佐賀県ひいては北部九州の平安、鎌倉、南北朝期の歴史的動きを知る上で貴重な文書である。
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木造圓鑑禅師坐像 一躯
重要文化財
佐賀平野中央北部で嘉瀬川中流の東方春日山中腹に、春日山高城護国禅寺がある。当寺は、文永7年(1270)、久池井の地頭国分忠俊の帰依を受け、蔵山順空(ぞうざんじゅんくう)が開山した臨済宗東福寺派の寺院である。 圓鑑禅師は蔵山順空(1233~1308)の謚(おくりな)で、出生地は不明であるが、佐賀市大和町万寿寺神子栄尊(じんしえいそん)のもとで出家、栄尊に従って上洛、京都東福寺で円爾弁円(えんにべんねん)(聖一国師)に師事、鎌倉で蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の門に入った。弘長2年(1262)に中国へ渡り、各地で禅を学ぶ。帰国後、高城寺を開山した。のち再び京都に出て、正安2年(1300)、東福寺第6世の住持となり、延慶元年(1308)に遷化されている。 像高は85.5センチメートル。桧材による寄木造りで、内刳(うちぐ)りを施し、目は玉眼とする。表面には麻布を貼り漆下地、彩色を施す。この像は剃髪(ていはつ)し、衲衣を着けて袈裟(けさ)を懸け、両手を膝上に差伸べて払子(ほっす)を執り、膝前を垂らして曲録(きょくろく)(椅子)に座る。 頭部は肉付き豊かで、後頭部には肉のたるみを表わす。目は閉じ加減、眼窩(がんか)や口元の窪みを小さくして、穏やかな面貌を作る。体部も肩の張りや肘、膝の張出しを抑える。乱れなく衣をまとい、衣のひだは細かいひだを省いて明快な強い曲線で処理する。 こうした穏やかな雰囲気は、禅の修練を積んだ順空の悠揚(おうよう)迫らぬ人格と品格を見事に写しており、鎌倉的写実の妙を示している。 頭部の内刳から宝篋印陀羅尼(ほうきょういんだらに)と般若心経に添えられた立願文が発見され、正安2年(1300)の作であることが確認された。 鎌倉時代に隆盛した禅宗では、頂相(ちんそう)と称して、開山の像が盛んに造られ、多くの優作が残されている。この圓鑑禅師坐像もその作例の一つで、数ある肖像彫刻の中でも優れた作品である。