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[川副町][ 地名・とおり名]は3件登録されています。
川副町 地名・とおり名
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川副町の地理的環境
川副町は佐賀郡南部の有明海沿岸に位置し、東は九州一の大河、筑後川を隔てて福岡県大川市と相対し、西は八田江をはさんで東与賀町に接し、北は佐賀市諸富町と佐賀市北川副町に隣接している。南のみは有明海に向かって開口している純農村地帯で、東西約7km、南北9.5kmにおよぶ。 本町の中心部をなす佐賀市川副支所の位置は、北緯33度11分、東経130度19分の地点にあって、県道30号線がここを通って、佐賀市を結び、佐賀駅までの距離は約10kmである。本町の総面積は45.37平方kmで、佐賀県総面積の約56分の1に当たる。旧町村別面積は南川副が19.58k㎡、中川副が6.31k㎡、西川副が10.04k㎡、大詫間が9.44k㎡である。総面積の内訳は田地が全体の56%を占め、文字どおりの穀倉地帯である。 なお、本町に縦横に走っているクリークは国有であるが、地目区分では、その他に入る。37%はクリークのみではなく道路も入っているが、クリークのみは20%を超えるものとみられる。全くの平地のため、山林原野は皆無に近い。わずかにみられる畑地や原野は旧干拓堤防の余白地などに残ったものである。 近年、農業生産基盤整備事業として、大詫間地域では、圃場整備も完了、計画的な水路の整備で、旧来のクリークや堤塘が姿を消している。
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川副町四村のあゆみ
(明 治) 22年4月 南川副村・西川副村・中川副村・大詫間村となる 23年12月 犬井道新搦落成 24年7月 大詫間で漁民紛争 25年5月 佐賀・福岡両県漁紛争落着 26年10月 佐賀平野南部で害虫被害起こる 27年12月 各村に派出所・駐在所設置 31年4月 早津江に肥料合資会社創業 33年7月 筑後川沿岸大洪水 34年4月 漁業者朝鮮海に初出魚 35年4月 甲種商船学校早津江に新設 37年9月 大詫間干ばつ被害 38年7月 暴風雨で堤防決壊被害でる 41年1月 農商務省、有明海産物調査 42年4月 有明海の佐賀・福岡両県境碑建立 43年4月 佐賀県立商船工業を佐賀県立商船学校と改称 (大 正) 3年8月 高潮で大詫間村・南川副村で被害甚大 4年9月 早津江に肥前銀行設立 8年8月 高潮で西川副村・大詫間村被害が出る 11年3月 中川副村、動力農具据付モデルとなる 12年6月 園田氏の漁業権の公判実施 14年7月 新道一早津江間バス運行 15年5月 佐賀―早津江間バス運行 (昭 和) 3年1月 公設消防西川副村に設置 4年1月 公設消防中川副村に設置 6年5月 八田江改修工事地元4ヶ村で請負う 7年3月 南川副村産業組合倉庫全焼、米・4177俵焼く 12月 佐賀県立商船学校の廃校決定 8年9月 大詫間暴風雨被害でる 11年6月 南川副村上水道認可 12年3月 天然痘発生、西川副村15人罹患5名死亡 13年5月 愛国婦人会中川副分会全国表彰 16年8月 犬井道で漏電による感電死3名・重傷2名 17年11月 各村に佐賀市郡中学生稲刈奉仕に出動 18年4月 南川副・大詫間の漁船空襲を受ける 19年7月 サイパン島玉砕、6,000名村民小々森に集り、決起集会開く 20年7月 空襲で小々森、波佐古で死者がでる 21年1月 4村村長退任 22年4月 4村村長新任 23年3月 4村に自治体警察駐在する 24年6月 4村に公民館に設置 25年11月 有明海赤潮発生、蛎養殖全滅 26年6月 早津江橋竣工 27年11月 4村に教育委員会設置 12月 佐野常民伯五十周年記念式典あり 28年 4月 南川副村町制施工 6月 豪雨被害で4村家屋浸水あり 29年3月 町村合併促進委員会設ける 8月 川副漁民ホリドールで魚類死滅、国家補償を要求する 30年4月 南川副町、中川副村、大詫間村の合併により川副町発足合併後第1回町長、町議会議員 選挙 8月 川副町消防団結団 31年7月 川副町旧庁舎落成 9月 西川副村を編入合併 32年2月 南川副地区平和搦177.30町歩干陸 33年9月 南川副中、西川副中、中川副中学校を統合のため廃校 10月 川副中学校発足 34年5月 有線放送開始 35年1月 県営大詫間渡船「第二川副丸」進水 36年2月 大詫間へ市営バス運行 38年3月 川副中学校統合校舎総合落成式 39年3月 ノリ人工採苗場竣工 40年3月 西川副干拓入植 41年10月 町村合併10周年記念式典 42年9月 干ばつのため、サンドポンプで取水(大詫間) 43年4月 県営大詫間渡船「第二川副丸」進水 44年1月 池田直佐賀県知事年頭の挨拶で航空建設の意向表明 45年2月 町章制定 46年4月 佐賀空港建設絶対反対期成会が発足 48年3月 佐野記念館開館 7月 町民会館開館式 49年2月 大詫間「山口家住宅」が国の重要文化財に指定 50年7月 九州地区高校総合体育大会水泳大会 51年9月 第31回国民体育大会夏季大会 (水球競技を川副町民プールで開催、皇太子御夫妻行啓) 52年5月 川副大橋起工式、葬祭公園火入れ 53年3月 川副町総合開発計画策定 54年2月 「川副町誌」を発足 55年5月 川副町新庁舎竣工 56年7月 川副勤労者体育センター落成式 57年12月 参議院議員 福岡日出麿氏名誉町民(第2号)として議決 58年 12月 川副大橋開通式、大詫間地区へ上水道送水開始 59年 3月 川副運動広場竣工 60年 3月 川副町保健センター落成式、川副町児童館落成式 61年 8月 夏祭り「あつかばってん祭」開催 62年 3月 川副町第2次総合開発計画策定 63年 3月 川副・東与賀町清掃センター完成 (平 成) 元年7月 諸冨町・川副町・東与賀町・久保田町の4町で佐賀南部地域開発推進協議会発足 2年10月 早津江橋開通 3年7月 川副中学校新校舎落成 12月 川副町第3次総合開発計画策定 4年9月 佐賀空港建設予定地の平和搦地権者が用地買収に合意 5年7月 佐賀空港建設工事起工 6年11月 空港大橋開通式、佐賀地区広域市町村圏組合の設立 7年4月 スポーツパーク川副落成式 9月 中川副小学校新校舎落成式 12月 九州国際空港研究会発足 8年3月 山口家住宅公園落成 10年10月 川副町のホームページを開設 11年6月 町長室で夜間懇談会開始 12年10月 川副町第4次総合開発計画策定 13年2月 町制45周年記念「NHKのど自慢」全国放送 14年6月 有明佐賀空港機能強化促進期成会発足 16年10月 佐野常民記念館開館 17年12月 歴史公園開園
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大詫間の成立
筑後川河口の大三角州は、橋が出来るまでは、1つの島をなしていた。 北半分が福岡県大川市の大野島、南半分は佐賀市川副町大詫間島で、所属する県を異にするばかりではなく、近世までは大野島は柳川藩、大詫間島は佐賀藩と歴史・民俗・言語、あるいは経済的視点にたっても、それぞれ異なった特徴を持っている。 地理的には一つの島でありながら、総称がないため、マスコミあたりでも、しばしば1島の名のみ記して、全島をあらわす誤りを犯すことがあった。だが、この大三角州ははじめから1つの島として発生したものではない。はじめ二つの島が出来、のちに結合したもので、そこには江戸時代の封建治下における長い間の争いが今日に至るまで、その片鱗を各所に残すことになった。そのもっとも顕著なるものは「通り柴」と称される不自然なしかも興味ある福岡・佐賀両県の境界線である。大野島はその位置からみて、大詫間島より時代的に早く生成した。この島の成立については、昭和44年9月、九州農政局有明干拓建設事業所が編纂された「有明干拓史」を参考として抜粋記載させてもらった。 【大詫間島の生成と境界問題】 慶長年中肥前国絵図によれば、筑後川河口の大三角州は全くその面影はないが、それから約90年後の元禄14年肥前国絵図(1701)をみると、巨大なデルタが現われて大多久間村長さ28丁横13丁と記載されている。したがって同島の生成と干拓地および集落の発生は、慶長年間から元禄に至る約100年間であると言うことができる。 しかしなお古来の伝承や古文献、遺跡などの資料を詳細に検討して、この問題を究明することにする。 特に大詫間干拓の端緒は、後述する如く有明沿岸における佐賀藩随一の商人請負新田であるばかりではなく、筑肥両藩争奪の場として、極めて興味ある歴史的経緯を蔵しているからである。 伝承によれば、同島付近は天正のころ(1573〜1591)は松枝沖と称していたが、その名称の起原は筑後川の大洪水の後、川口の浅瀬に松の巨木が横たわっていたことに因るとつたえられている。しかし思うに同島は当時松枝村(三根町の松枝集落)の沖合いに当たっているため、松枝沖の名称が生じたものと推考される。 既に述べた如く、元来この大三角州は最初2島として出現したもので、北部の大野島は慶長6年(1601)筑後藩士津村三郎左衛門が数十町を干拓したのが端緒である。しかし南部の大詫間島は、同地の八大龍王社記に述べるが如く「既に文禄年中(1592〜1595)に中州が現われ、鍋島勝茂公は龍王の神石(ほこら)を建てて先占を示し、自後その神石(ほこら)を中心として泥土堆積す」と記し、また「元和9年(1623)改めて八大龍王の神祠(かんし)」を建立し、寛永のころ干潟益々成長し両藩の境界争奪盛んに行われる。」と記しているところ見ると、文禄のころ(1592〜1595)は小潮時には満潮においても常に露出する程度に成長し、3・40年後の元和・寛永(1615〜1643)のころは既に部分的に陸化した結果、龍王の神祠(かんし)が建立され、肥筑両藩の境界争奪が激化したものと思われる。 しかしその当時の筑後藩は関が原の役に石田三成を捕えて大功を立てた田中氏は改易され(元和6年:1620)、その代わりとして、一時筑後の地を失脚して逆境にあった立花宗重が再び柳川城に復帰したのであるが、かくの如き肥筑両藩の情勢の変化は、この境界問題にも顕著に影響し、従来と異なる肥前側(佐賀藩)の積極的な態度の結果、天保年間(1644〜1647)に和議が成立して、2島の北部大野島は筑後藩(柳川藩)に南部の大詫間島は肥前藩(佐賀藩)に属することになった。 この境界決定に際しては、北茂安町千栗(ちりく)八幡の神幣を柴の小枝に結着して、潮の引きがけに上流から流したところ、偶然にも二島の境を流れる澪(みお)(江湖)を通って流れた結果、この江湖を両藩の境界とすることを決定の上、神かけてこの境界を侵さざるの宣誓をなす意味において、かかる神事が行われたものと思われる。 この江湖は10余年前までは葦の繁茂した幅2m余りの小溝渠と化し、大野島から大詫間に至る村道の石橋の両側に小柴が植えられて、300年以上前の歴史的神事を物語るとともに、地名を「通り柴」と称して、今日においても佐賀、福岡両県の境界となり、小溝渠は浚渫されて、大詫間の幹線水路となっている。