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[旧佐賀市][指定文化財 佐賀県 史跡]は2件登録されています。
旧佐賀市 指定文化財 佐賀県 史跡
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佐賀城跡
史跡
佐賀城は、佐賀平野の低平地に築かれた、最も幅広の所で約72メートル(40間)の堀に囲まれた典型的な平城である。この城は、天正年間に整備された龍造寺氏の村中城を拡張し、慶長13年(1608)から慶長16年まで鍋島直茂・勝茂親子の佐賀城総普請により完成した。その際、本丸・二の丸の曲輪は新たに付け加えたといわれている。慶長年間に描いたとされる「佐賀小城内絵図」の本丸には、五層の天守閣と多くの殿舎が描かれており、本丸が佐賀藩の象徴であったことがうかがわれる。 佐賀城は、大きな火災に二度遭っている。享保11年(1726)の火災では天守をはじめ本丸・二の丸・三の丸のほとんどが焼失し、享保13年に二の丸、宝暦5年(1755)に三の丸が再建された。その際本丸の再建は見送られ、二の丸が藩政の中心となった。天保6年(1835)再び火災に遭い、二の丸が焼失したため、10代藩主鍋島直正は110年ぶりの本丸再建を表明し、「佐賀城御本丸差図」が作成された。天保9年(1838)には直正が新築成った本丸に入り、佐賀藩の雄藩化や日本の近代化に大きく貢献していくことになった。 佐賀城の発掘調査は、これまでの調査で、石垣や堀などの曲輪を区画する遺構や通路跡を断片的に確認しているが、平成5年(1993)から平成13年の間に実施した本丸跡の調査では建物礎石のほか、多くの遺構が残存していることがわかった。 本丸は、北側・西側・東側の一部を石垣で、東南半と南側は土塁で囲んでいる。寛政6~10年(1794~98)には本丸南側に石搦が築かれたことが記録されており、調査により築城期より南側に7メートル拡張し、赤石(安山岩質凝灰角礫岩)を積み上げていることが明らかになっている。本丸の規模は、東西が二の丸との間の水路から三の丸との間の堀まで194メートル、南北は鯱の門東側石垣から南堀までが190メートルある。本丸内部では、東西が土塁の内側で(東・西とも土塁の幅を14メートルとした場合)158メートル、南北が広い東側で(南側土塁は幅を21メートルとした場合)162メートル、最も狭い天守台南側で(土塁幅を21メートルとした場合)105メートルある。天保期の「佐賀城御本丸差図」に描かれている御玄関・御式台・外御書院・御料理間・御座間・御台所等の建物跡は、差図とほぼ一致する状態で確認されているが、大御書院・大溜・御舞台については、差図と確認された遺構が一致しないことから、この部分にあたる遺構は嘉永期の差図に描かれている皆次郎様御住居・御会業之間等の建物跡であることが明らかになっている。御式台・外御書院・御料理間等の建物礎石の基礎は、礎石ごとに砂利や玉石を使い基礎を固めているが、御納戸や屯之間等の基礎は幅約1メートル、深さ約1.5メートルの溝を柱筋に掘り込み、最下部に松の丸太を組み合わせて置き、その上に粘土混じりの砂と割った瓦を交互に重ねて地固めし、最後に礎石を載せている。このことは、「御手許日記」の、工事費を節約するために松と「赤石」を使って基礎とするという記録と一致する。また天保期再建の建物礎石の約0.5メートル下からは、享保期の火災時の灰をかぶった状態で建物礎石が見つかっており、この礎石は慶長期のものである可能性が高い。 佐賀城跡は、堀の一部は埋められているものの、当時の趣をよく残している。また、西国の近世城郭では石垣普請による城郭構築が一般的であるが、石垣と土塁を併用した例はあまりなく、天守台は、本丸内部から登る通路がないことなど、他の城郭と比較しても特異である。特に本丸内部の建物遺構は、築城期から廃城期までの変遷を追うことができ、天保期再建時の建物群は、礎石の遺存状況の良好さに加え、その規模の大きさ、本丸内部に占める密集度など本丸御殿の様相をよく表している。本丸御殿は、御玄関・御式台・外御書院などの「表」の部分、藩主の居室である御座問などの「中奥」、長局などの「大奥」機能に加え、請役所や御懸硯方の「役所」機能も取り込んだ、藩政のまさに拠点としての役割を果たしている。近世の城郭で本丸内部を発掘調査した事例は少ない上、「表」・「中奥」・「大奥」機能に「役所」機能を付随した発掘調査例は希少で、城郭史・建築史の観点からも非常に貴重な資料である。
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関行丸古墳
史跡
脊振山南麓の狭い扇状地上に立地する。東に神籠石(こうごいし)で知られた帯隈山(おぶくまやま)、西に139.5メートルの山丘によって囲まれた平地に位置する前方後円墳である。昭和32年(1957)に佐賀県教育委員会、九州大学が発掘調査を実施した。後円部径35メートル、周囲の水田面からの比高差4.5メートル、幅13メートル、高さ1メートルで主軸の方向は西25度南である。葺石(ふきいし)・埴輪(はにわ)などの外部施設は認められない。 内部主体は短い羨道(せんどう)をもった単室の横穴式石室で後円部にあり、北側くびれ部に向かって開口する。石室は長さ4.35メートル、幅2.8メートル、高さ2.65メートルで、奥壁の方が前の部分より約0.8メートル広い。側壁の架構は腰石の上に比較的小型の塊石を平積みにしてせり上げている。石室内は石障(せきしょう)によって区画された3つの屍床(ししょう)がつくられている。1つは北側にあって東西に長く、他の2つは西側にあって南北に長く、奥壁に平行して前後に並列している。3つの屍床には計5体の遺骸が埋葬されていた。石室内は天井部と羨道部を除いて、屍床から床石に至るまですべて鉄丹(に)が塗られている。羨道の幅は玄室に接するまで1.2メートル、開口部が2.2メートルで「ハ」字状に先開きである。 副葬品は、鏡4面、金鋼製冠帽、貝輪、勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)、小玉、鉄鏃(てつぞく)、刀子(とうす)、辻金具、鋲(びょう)金具、三環鈴(さんかんれい)等が出土している。当古墳は6世紀初頭ごろの築成と考えられる。