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[大和町][指定文化財 佐賀市 考古資料]は5件登録されています。
大和町 指定文化財 佐賀市 考古資料
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大願寺二本松遺跡出土 一括(八花鏡一面、青銅製鉈尾)
重要文化財
大願寺二本松遺跡は県史跡大願寺廃寺の約1キロメートル西に位置する縄文・古墳・奈良・平安時代の集落跡である。特に奈良・平安時代の建物群は計画的な配置がみられ、官衙関連の遺跡と考えられる。これを裏付ける遺物として帯金具、鏡、越州窯系青磁、東海系須恵器、木製鞍と多くの墨書土器が出土している。このうち帯金具は青銅製の鉈尾で、残存長6センチメートル、幅3.8センチメートルを測る。鏡は八花鏡の約1/8の破片で、銅質は大変良い優品で復元すると約18センチメートルとなる。
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本村籠遺跡310号土壙墓出土遺物 一括(青磁椀二個、土師器小皿四個、刀子一口)
重要文化財
本村籠遺跡は嘉瀬川から西へ200メートルほど離れた佐賀市大和町池上に位置する。多鈕細文鏡を出土した地点の約400メートル南西に位置し、この地点からも弥生~中世の墓地、集落が調査されている。屋敷地を示すと考えられる鎌倉時代の区画溝内には、屋敷墓と考えられる310号土壙墓が発見されている。内部からは龍泉窯系青磁椀2個、土師器小皿4枚、小刀1振が埋納されていた。青磁椀はグリーンの釉色の発色がすばらしい優品である。小刀を有することから地域の豪族に関連する人の墓と考えられる。 鎌倉時代この一帯は於保氏が地頭職を相伝しており、関連が考えられる。
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佐熊遺跡出土 一括(鐸形土製品一個)
重要文化財
佐熊遺跡は弥生時代集落や墓地が調査された惣座遺跡の南に位置する遺跡で、弥生~中世の集落跡などが発見されている。この鐸形土製品は溝から出土したもので、下半部を欠いており、残存長6センチメートル、幅6センチメートルを測る。上部をつまみ出し鈕とし、中央に穴をあけている。
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上和泉遺跡出土瓦塔
重要文化財
上和泉遺跡は佐賀市の北東部に位置し、脊振山系南麓から派生する洪積台地上に立地する弥生時代から中世にかけての複合遺跡である。 瓦塔が出土した上和泉遺跡9区は、現在の久保泉工業団地の一角にあたる。遺跡の主体をなすのは8世紀後半~9世紀前半を中心とした時期の土坑群で、浅い谷地形の上がり際に群集するという特徴的な占地形態を示していた。また、遺構埋土も特徴的でいずれも人為的に埋め戻されたような状況を示していた。このような土坑群は周辺遺跡の調査においても検出されており、その性格としては「集団墓地」あるいは「土取り痕跡」ではいかという指摘がなされているが、確定はできていない。 瓦塔はこのような土坑群の中の1基から出土した。土坑からの出土遺物は8世紀後半~9世紀前半にかけての須恵器・土師器であり、このことから瓦塔の年代も同様と考えられる。 瓦塔は、組合わせ式仏塔の初重軸部(下から一段目)にあたり、ほぼ完存する。土師質土製品で、器壁の一部に赤塗りの痕跡が認められる。器高37.6センチメートル、基壇幅34.2~35.4センチメートルを測る。平面柱間は3×3間で、四面に開口部を設ける。基壇は二重基壇、柱は四角柱を表現しているものと考えられる。 組物は、尾垂木と持ち送りは一体化した立体的表現がされているが、その他のものについては平面的な表現に省略されている。 瓦塔は、奈良・平安時代を中心に造られた実用型仏塔の一種である。軸部・屋根等の各構成部位毎に窯で焼き上げた後、それを組み合わせ木造高層塔婆模造の中型塔婆とし、屋外あるいは屋内に建立された。 瓦塔の九州内における出土例としては、福岡・熊本両県で数例を確認しているが、佐賀県内では初の出土例である。しかも、初重軸部のみとはいえほぼ完存しているものは九州内において他にはない。 瓦塔は、仏教信仰と密接な関係をもつ遺物であり、仏教文化の地方伝播や当時の思想・杜会情勢を研究する上で重要な資料である。
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尼寺一本松遺跡出土遺物(一括)
重要文化財
【形状又は特色】 「雲雷文帯連弧文鏡(うんらいもんたいれんこもんきょう)(1面)、SJ7007甕棺墓棺体(1対)」 「方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)(1面)、ガラス小玉(1800点以上)、碧玉製管玉(1点)、SJ7026甕棺墓棺体(1対)」 【概要】 尼寺一本松遺跡は佐賀市大和町尼寺に所在し、嘉瀬川東岸の複合扇状地(ふくごうせんじょうち)に立地する。平成23年度に実施した発掘調査で、主に弥生時代中期末から後期の墓地が発見された。この中で特筆されるのが、中国で製作され伝来した青銅鏡を伴った甕棺墓の存在である。鏡は並列した2基の甕棺墓(SJ7007、SJ7026)から出土し、いずれも意図的に割って置いたと考えられる状況で出土した。SJ7007甕棺墓からは、割れた「雲雷文帯連弧文鏡」4片を一箇所にまとめて、棺体に添えるように並べて置かれていた。SJ7026甕棺墓からは、割れた4片の「方格規矩鏡」の1片のみを下甕の下に置き、残りの3片は上甕胴部中位の傍らに置かれていた。SJ7026の甕棺内からは被葬者の装身具と考えられるガラス小玉(1800個以上)、碧玉製管玉(1点)も出土している。いずれの甕棺には、内面に赤色顔料が塗布されていた。 鏡やガラス玉が出土した甕棺墓の被葬者は、特定身分の人物と推察され、近隣の惣座遺跡(そうざいせき)を含めて嘉瀬川流域に形成される地域社会の中核的集団の墓域と考えられる。 また、鏡が出土した甕棺は、時期的に弥生時代後期に位置づけられ、形式年代を判断する指標の一資料である。さらに鏡の破砕埋納(はさいまいのう)行為の起源は佐賀平野中西部と考えられており、今回の発見は、その細かい地域性が明らかになってきたとともに、甕棺を埋葬するどの段階で鏡の副葬(配置)が行われたなど、埋葬儀礼(まいそうぎれい)の一礼式がよくわかる資料である。