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[物語・いわれ][地名・とおり名][開成校区]は3件登録されています。
物語・いわれ 地名・とおり名 開成校区
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江頭
文献はないが、地名、屋敷跡その他から考えてみたい。 江頭地区は東から西へ、東土井、新川(川)、荒巻、郷倉屋敷、西、修禅坊、古川(川)、大西屋敷と分布している。 東土井は江頭地区で土地が一番高く、その中央に植木川の下流が流れている。この川は天井川で自然にできた川とは考えられない。多分灌漑用の人造川で、名前も新川である。古川が一番低い地所を流れていて自然にできた川らしく近くに郷倉屋敷、修禅坊、西、大西屋敷、南に伽らんの地名がある。郷倉座敷の鬼門に良神神社(現在移転)その北に、300年以上の樹令と思われる「もち」の大木があるところから、最初は、古川の川辺に水の便を得て村落が発達したものと考えられる。その後、新川、植木川の開発に伴って西部の民家が減り、東土井付近にふえ現在に至ったものと思われる。 南部の大渡、なざまちも西部の伽らんから東へ移動したに違いない。 なお東土井にある道祖神は当地開発の際、守り神としてお祭りしたかも知れない。 また、今山出兵の道路として江頭西のあぁあ十れんを通って北へ進み将軍神社から勝楽寺に達したものと考えられる。
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新村(開成2〜6丁目)
新村といえば、戸数70戸ぐらいの昔の姿が思い出されてくる。佐賀ん町に近い所に位置して南には神野のお茶屋と言って鍋島さんの別邸(現在の神野公園)があり、それがまるで新村の前庭のように思われ、春には桜の花見客のさんざめきが夜を通して聞こえてきていた。 また、東を流れる多布施川、それから取り入れられた新村川が東から西に流れている。 その川の水は、大切な飲用水と農業用水に使用され、年に数回の地区総出の公役によってその美しさが保たれてきていたが、今は、まわりの人口増加により水も汚れつつあるのは残念なことである。 氏子神社として新村の北東に権現神社がある。由来ははっきりしていないが新村氏子一同の祈念する神社である。昔は、よく狐がいたので夕方からは近づかないように、回り道をして通った思い出のある人も多いことと思う。 時の流れとともに変わり、パチンコ店、バッティングセンター、スーパーといろいろな店が並ぶようになり、役場は記念碑が建立されている。 祗園祭は8月初めにあり、小学生の上級生が1日がかりでお宮の掃除や準備に追われ、夕方から高譲提灯を立て、お参りにくる人々に唐豆を煮てもらったのを一人ひとりに豆しゃくしで配ったものである。
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八戸溝
八戸溝という地名は、新庄八幡神社の沿革に養和元年(1181)八戸溝と森田の氏神様として建立とあることから、「八戸溝」はそれ以前から地名があったと考えられる。 1817年の藩政時代には新庄郷八戸溝村であり、明治22年(1889)市制町村制移行に伴い、佐賀郡鍋島村の中の5村(鍋島・森田・蛎久・八戸溝・八戸)となった。 昭和15年当時、66戸・324人の集落であったが、昭和40年代の人口の増加に伴い昭和55年には、648戸・2,313人と記録されている。 平成5年に開成校区が発足したことに伴い、八戸溝自治会の一部が開成校区の新しい自治会として分離発足し、残った八戸溝・鍋島第一団地・佐賀医大八戸溝宿舎の3自治会は新栄校区へと編入され、中学校区は鍋島という変則的な区域変更を余儀なくされた。 以来7年間新栄校区で活動してきたが、町区民が開成地区への編入を希望したことや開成小学校の児童数も当初より減少したことで、平成11年4月から開成校区への編入が実現した。 平成21年の八戸溝自治会は、八戸溝一~三丁目、神園五~六丁目で、西は国道208号線(西部環状線)より東側で、北は佐賀銀行鍋島支店北側道路より南側、東は多布施川支流を境に鶴沢鉄工所の西側、南はJR長崎本線の北側に位置している。 世帯数は約700戸で人口約2,000人が居住していて、自治会の主催でコンサートの開催や町区内に存在する石造物を見て歩く会など様々な文化活動を実施して、活発な地域活動を展開している。