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[物語・いわれ][物語・四方山話][富士町]は12件登録されています。
物語・いわれ 物語・四方山話 富士町
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太閤石
西畑瀬の道沿いの田んぼのなかに長さ1m、幅50cmほどの平たい石がある。腰掛けるには恰好の石である。しかし、石に腰掛けると腹が痛くなるといい、地元の人が座ることはない。豊臣秀吉が名護屋へ行くときに、当地を通り一休みされたときに座った石といい伝えられ太閤石という。千頭の馬が休んだという千駄ケ原という地名が残っている。 秀吉がこの石に腰を掛けたかどうかはわからぬが、名護屋に在陣中、母大政所の病気で伏見へもどり、再び肥前へ下向したとき、佐賀上道(現大和町春日付近)を通っている。文禄元年(1592)10月のことである。川上川の下、名護屋渡りというのは、そのとき秀吉が渡ったので、そう呼ぶようになったという。現在は、畑瀬団地前の付替え国道の脇に移転している。
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かっちゅうときつね
むかし。 お宮のぎんなんの木のちょっぺんに、かっちゅうの、巣ばかけとったって。 そして、そこで玉子ば生んで温めとったぎ、その晩、きつねの来て、ぎんなんの木の下から、 「おい、こりゃあ、かっちゅう、おいに卵ばいっちょくいろ。くれんぎんと、そこまで登って来て、わがまでうち食うじゃ」て言うて、脅すもんじゃ、しかたなしいかっちゅうは、卵ばいっちょきつねにやったて。 そいぎ、そいからきつねの味くろうて、毎晩、かっちゅうの所さい来て、 「おい、かっちゅう、卵ばいっちょくいろ、くれんぎんた、わがまでうち食うじゃ」 て言うて、いっちょづつ卵ばおっとって帰いよったて。そいもんじゃ、かっちゅうの巣の中にゃあ、とうとう卵のいっちょしか無かごとなったて。 かっちゅうは哀しゅうして、哀しゅうして、巣の中で泣きよったて。そいぎ、そこさい、しらさぎの飛んで来て、 「なしそがん泣きよっかい、ないしたかい」て言うて、かっちゅうに、わけば聞いたぎ、 「きつねの毎晩来て、卵ばいっちょづつ、おっとって行くもんじゃ、とうとういっちょになってしもうた。そいけん哀しゅうして泣きよっ」て言うたて。しらさぎは、 「なんてそがんやっかい、やらんぎよかやっかい」て言うたて。かっちゅうは、 「そいばってん、卵ばくれんぎ、木に登って来て、わがまでうち食うじゃ、てきつねの言うもんじゃ」そいぎ、しらさぎは笑うて、 「ないてきつねのぎゃん所まで登ってきゅうかい、ありゃあ、なすびの木に、はしご掛けたっちゃあが、登いきらんとこい。今度、きつねの来て、脅したこんな、おい、きつね、登いきっないここまで登って来い。そいよいか、まあだよか事ば教ゆうだい。中原峠の堤にゃ、三尺ぐりゃあの鯉の魚のおっ、そこさい行たて、堤の中に尻尾ば入れとっぎ、じきと尻尾に鯉の魚のかかっけんが行たてみろ。て言え」て教えたて。 そいぎその晩、又きつねの来て 「かっちゅう、卵ばいっちょくいろ、くれんぎんた、わがまでうち食うじゃ」て言うもんじゃ、かっちゅうは、しらさぎから教えてもろうたごと、 「おい、きつね、登って来いゆんないば、ここまで登って来い」て言うたて。そいぎきつねは困って、 「いつおいがそぎゃん、登って来って言うたか」て言うたて。そいぎ、かっちゅうはきつねに、「まあだよか事のあっ、中原峠の堤にゃ、三尺ぐりゃあの鯉の魚のおっ、そこさい行たて堤の中に、おとんの尻尾ばつけっとぎ、じきと鯉の魚のかかってくっけんが行たてござい」て言うたて。そいば聞いたきつねは、喜んで中原峠さい駈けて行たて、じいっと堤の中に尻尾ばつけて、鯉の魚のかかっとば待っとったて。そいばってんが、いくら待ったてちゃ、いっちょんかからんやったて。 欲のきつかきつねは、 「一匹ぐりゃあは釣らん事にゃ。」と、又じいっと待っとったて。そいぎ、そのうち雪の降って来て、だんだん堤の凍って来たばってん、きつねは鯉の魚ば釣ろうで頑張っとったて。そいもんじゃ、とうとう堤には氷の張って、尻尾の凍いちいて、動かれんごとなってしもうたて。 そして、あくる日、その中原峠の堤さい来た人間に捕ってしもうたって。 (麻那古 嘉村秀一)
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勘右衛門と銭くそをたれる馬
むかし。今ん唐津んにき、勘右衛門て言う悪知恵の働く男のおったて。勘右衛門には、よっぽいケチかおんじさんのおらしたて。そのおんじさんな、銭はどっさい持つとっくせ。いつでん我銭はいっちょでん出そうでさっさんやったて。 ある日、勘右衛門は、「どやんじゃいして、あのケチおんじいば、きゃあくいだまゃあて、銭ばとってくりゅうで思うばってんが、何じゃいよか知恵のなかろうかにゃあ」て言うて、道ばたで考えよったて。 そこさい、よろよろして、今でんたおるっごたっやせ馬ば引いた馬方の通りかかって、 「あーあ、ほんなごてくたびれた。こぎゃん馬ば持っとったっちゃあ、もう銭にゃあならんし、そいけんちゅうて、飲みゃあは食わせんばなんし、ほんなごてこりゃあ、やっきゃあもんばい。えーくそ、一服して行くか。」て。言うて、道ばたの石にすわって、タバコばふかしはじめたて。そいば見よった勘右衛門は、"パチン"てばたたいて、ニタニタしながら馬方に近づいて、 「よーい、馬方さん、よーいさい」 て言うて、声ばかけたて。馬方は、キョロキョロしょって、勘右衛門に気づいて、 「おれえ言いよっかん、おれえなんの用事かん」て言うたて。勘右衛門は、「うん、おとんさい。何ちゅうて用事はなかばってん、ちょっとばかいその馬ば見せてどまくれんゃいかて思うて」 馬方はぐらいしたごと、 「ちぇ、何じゃいかて思うとっぎ、そがんこつや。そがんこつないやしいもんたん。穴んほぐっぐりゃ見てくいやい」て言うたて。勘右衛門は、そのやせ馬ば見ながら、馬方に、 「のう、馬方どん、おとんなこの馬どがんしゅうで思うとっかん。こりゃあ飯み代が高うつきゃあせんかん。食わしゅうでおおごとじゃろうだん」 「うんさい、こりゃあもう使いもんにゃならんけんが、おいもどがんしゅうかて思うて困っとったん」「馬方どん、そんないば、おれえ売ってくれんかん」 「あーん、そりゃあもう、こぎゃん馬でよかないば、おりゃあこいよい良か事はなか。そいばってんが、ぎゃん馬ば買うて、おとんな何ぼしゅうで」 「おりゃあ、こまか時から馬ば好いとったもんじゃ、うちい飼おうかて思うて」 「ふーん、そりゃあ、銭まで出して買うてくるっない、喜んで売っくさん」 そがんこつで、勘右衛門は、安うでやせ馬ば買うて、 「さあて、この馬でいっちょあのケチおんじいば、きゃあくいだみゃあて、ひともうけすっか」て言いながら、家さん帰ったて。家さい帰った勘右衛門は、持っとっ小銭ば、すっぱい馬の尻の穴に詰め込んでから、 「ようし、こいで準備はでけた。いっちょおんじい方さい行たてみっか。」 て言うて、おんじさん方さい行ったて。おんじさん方さい着いた勘右衛門は、 「おーい、おんじゃん、おっかんたあ」て言うて何辺でん呼んだて。そいぎ、いっときしてからようよおんじさんの出てこらしたて。勘右衛門の、 「ないねえ、おらんやろうかておめえよっぎ、おんないおっごと返事ぐりゃあしてくるっぎよかとこい」て言うたて。そいぎ、おんじさんな、 「あーもせからしかほんなごて。返事てんすっもんかい、口動かすとのもっちゃあなかとこれ。そいぎ何の用事かい、はよ言わんか、動くぎ腹の減っとこい」 て、片目ばつぶって、片耳も手でおさえながら言わしたて。そのかっこうば見た勘右衛門は、 「そいばってんが、なしおんじやんな、そぎゃん片目ばつぶって、耳は片一方は押さえたごとして、なんじゃいしたとかんたぁ」 て聞いたて。おんじさんは、 「ないもしちゃあおらんばってんが、目は両方で見っぎもっちゃあなかけん、片っぽ開けて見て、きつうなっぎ、あっちゃこしの目で見っごとしとっ。耳も一人と話す時ゃあいっちょしきゃいらんけんが、片一方はふしゃあどっ。そがんこつはよかけんが、用事はないかい」て言わしたて。勘右衛門は、 「あっ、そうそう、ちい忘れよった。そいがくさんた、まあ、この馬ば見てくいやい」て言うて、つれて来た馬ば指さしたて。おんじさんな、その馬ば"ジロッ"と見たばかいで、 「ないかいこりゃあ、こいでん馬かあ。やせこつこして、ねずい(ねずみ)の屁ふったてちゃあがうったおるっごとしとっじゃっか」て言うてうてあわっさんもんじゃ、勘右衛門は、 「ぞうたんのごと、この馬ばそこんたいにおっごたっ馬と一緒にしてくいちゃあ困っばんた。こりゃあ見かけは悪かばってんが、日本国中探ゃあたっちゃあがおらんばんた。なにしろ銭の糞ばたるっ馬じゃけんが」て言うたて。そいば聞いたおんじさんな、 「ないてわりゃあ、ふうけた事ばっかい言いよっか。こぎゃんおろゆうして、今でんべっばいすっごたっとの、銭の糞ばたるってんないでん、ちったあおかしゅうなかか。おいばきゃあくいだまそうで思うて、ひどかめあわすっぞ」て言うて、よっぽい腹かかしたて。そいぎ勘右衛門な、 「まあ、そんないばよう見ときやい。おんじゃんのそこまで言うないばたるっじゃい、たれんじゃい、おいが目の前でみしゅうだんた」て言うて、馬の尻ば"ピシャ″てたたいたぎ"ポトポト"て馬の糞ばたれたて。そして勘右衛門な、胸ば張って、 「ほら、おんじゃん、おいがすらごと言いよっじゃい、両方の目ん玉ば、ゆうっとみ開ゃあて見てみんさい」て言うたて。おんじさんな、勘右衛門があんまい言うもんじゃ、しかたなしい、馬の糞の所っさい行たて、棒の先でほじくいよらしたて。そいぎ、銭の出て来たもんじゃ、びっくいして、 「おーっ、こりゃあどうしたこっかい、ほんなごてこの馬は銭の糞ばたれとっ、珍しかばい」おんじさんな、その馬のよっぽいほしゅうなって、 「のう勘右衛門、こぎゃんよか馬は初めて見た。いっちょこの馬ばおれえ売ってどもくるっみゃあか」て言わしたて。勘右衛門は「しめたっ」て思うたばってん「ぐっ」てこらえて、 「いんにゃ、こいばっかいは、いくらおんじやんでん、そがん売ったいないたいはされん」て言うたて。そいぎ、おんじさんな、益々この馬のほしゅうなって、 「のう勘右衛門、そぎゃん言わあじ、おとんもきつかろうばってんが、おれえ売ってくいろ。その替(かわ)い、銭なおとんのよかしこ出すけんが」て言わしたて。その言葉ば聞いた勘右衛門は、わんざとしかたなかごとして 「そがんまでおんじやんの言うないば、おいも他ん者にないば、どがん高う銭ば出すて言うたてちゃあが売りゃあせんばってんが、他ならんおんじやんのたのみやっもんじゃ、しかたなか売ろうだいね。そいばってんそがん安うじゃ売られんよ」て言うたて。おんじさんな、もう、うれしゅうして、うれしゅうして、たまらあじ、 「おーおーそうかそうか、おいに売ってくるっか。よかよか銭なあどっさい出すくさい」 て言うて、大金ば渡さしたて。金ば受けとった勘右衛門は、うかしゅうしてたまらんとばこらえて、さっさと帰って行ったて。おんじさんは、大金ばだして買うたやせ馬ばながめながら、 「こりゃあよか物ば手に入れた。ちったあ高かったばってん、この馬しゃあが持っとっない、あんくりゃあの銭なじき取い戻す。ほんなごて勘右衛門はふうけとっばい」 て言うて、馬のはよう糞ばたるっごと、えさば食わせたい水ば飲ませたいさしたて。そして、 「はよう糞たれろ、はよう糞たれろ。まあだじゃろうか、はよう銭の糞たれろ」 て繰い返しながら、馬のじゆうぐるいば回いよらしたて。そいぎ、いっときして、馬の「ポトポトッ」て糞ばたれたて。そいば見たおんじさんな、よっぽいよろこんで、 「おーっ、ようよこん馬の糞ばたれてくいたばい。よーし、どっさいたれろ、どっさいたれろ。こいで、さっから勘右衛門にやった銭ぐりやあとい戻したろう。こいで、もう一生働かんでちゃあよか。ますます大金持ちにならるっ」 て言うて、笑いよらしたて。そいから、「どうら、いっちょ、いくらぐりゃあたれとっじゃい勘定なっとしてみっか」て言うて、馬の糞ばほじくってみらしたて。そいばってん、いくら探してでん、糞の中からは一銭でん出てこんやったて。おんじさんな血相ば変えて、今度は手づかみで糞ん中ば探さしたばってん、やっぱい銭は出てこんやったて。 勘右衛門にだまされた事に気づいたおんじさんな、歯ぎしりして悔っしゃあしんさったて。そして、そのやせ馬ば引きづって勘右衛門の家に行たて、 「こりゃー、勘右衛門。こんつきしょうが、ゆうも俺ばきゃあくいだみゃあて銭ばおっ取ったにゃあ。銭の糞ばたるってんないてんううすらごっばかい言うて。いくらはみば食わせたっちゃあが、銭の糞てんたれんじゃっか。おいが払うた銭ばかえせ」て言わしたて。そいぎ勘右衛門は、 「ありゃあ、そりゃあおかしかなんた。おいが時は、ちゃんと銭の糞ばたれよったばってんが。おんじやんな、そのうまになんば食わせたかんた」て言うたて。おんじさんな、 「何ば食わせよって、そりゃあおまえ、草てんワラてん野菜てん、馬の好いたとばっかい食わせよっくしゃあ」て言わしたて。そいぎ、勘右衛門は、 「あはー、そりゃあいかん。そがんとば食わせよっないば、銭の糞ばたれん。いくらよか馬でちゃあが、銭ば食わせんないば銭の糞ばたるっもんかんた」て言うたて。そいば聞いたおんじさんな、その場にへナヘナと座い込ましたて。 (麻那古 嘉村秀一)
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苣木のきつね狩り
むかし、むかし、て言うても、今から百年ばかい前の話たんたあ。 苣木に、弥助さんと定さんて言う二人の猟師さんのおんさったて。 ある日、二人で山さん狩りに出かけて行きんさったばってん、思うたごたっ、物にあいつかあじ、がっかいして、家に帰ろうで支度ばしよんさったて。そん時、ひょっと向かいの山ば見た定さんが、 「おい、弥助さん」 「なんかい」 「しいっ、太か声ば出しやんな、あの石ん上ば見てござい」と、声ば低うなして、弥助さんに耳打ちばしんさったて。なんじゃろか、と弥助さんも、定さんの言うた方ば見んさったぎ、小松のそばの太っか石ん上、大ぎつねのデンと座っとったて。 「ほんなごと、ありゃあ太かばい、よか獲物にあいちいたない」て。二人ながら、よっぽい喜んで、どがんして捕ゆうか、て相談しんさったて。 きつねは、そがん二人にゃあ、いっちょでん気づかあじ、じゅうぐるいば見回しよったて。 弥助さんは、 「あのない定さん、こりゃあ人から聞いた話ばってんが、きつねちゅうたあ、よっぽど踊いば好いとって言う話ばい」 「ほんなごてや、そんないば……」て言いながら、定さんは着とった着物ば脱いで、そいば頭からすっぽいかぶって、おおまんに、手だれ足じゃれで踊いながら、きつねに近づいて、踊い続けんさったて。そいぎ、きつねは、その踊いのよっぽい気にいったとじゃろう、用心すっとも忘れて見とれとったて。その間に、弥助さんがわからんごときつねに近づいて、 ズドーンと、一発で見事に仕留めんさったて。 そして、弥助さんと定さんな、おお喜びで、大ぎつねばいのうて山ばおりて行きんさったて。 苣木集落の前を字名で向野と言うが、そこには狐定平と言う平らな山があり、その時につけられた名だそうである。 (苣木 原ケサグリ)
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七兵衛と八兵衛
むかし、むかし。 上合瀬に七兵衛、下合瀬に八兵衛て言う知恵の働く人のおんさったて。 ある日、天気のあんまい良かもんじゃ、散歩しょんさったぎ、二人が道でばったい出合いんさったて。そして、八兵衛さんの 「何じゃいおもしろい話はなかかい」 て聞きんきったぎ、七兵衛さんの 「家の裏に、たぬきの住んどっさい、その頭の上、カラスの巣ば作っとっばい」て言いんさったもんじゃ 「七兵衛、なんてしゃんか事のあっもんか」 「そんないば八兵衛、家の裏さん見や来てんの」 「ようし、そんない見やきゅうだい、ほんなごて、たぬきの頭に、カラスの巣ば作っとっない馬八匹あさんにやろうだい」て言うて、二人で、七兵衛さんの家の裏さん行きんさったて。 そして、七兵衛さんの 「ほら、八兵衛、あそこば見てんの」と、指ばさしんさった所は、すっぱい田ん中で、田ん中の脇に、木の一本立っとって、その上ば、カラスの飛びよったて。そいもんじゃ、八兵衛さんの 「どけえ、たぬきの頭に、カラスの巣ば作っとっか。たぬきでんおらんやっか」 て言いんさったぎ、七兵衛さんの 「いう見てみい、あすけえ木のあろうが、木の上にカラスの巣ば作っとろが、田の木の頭に、カラスの巣ば作っとっけんが、たぬき(田の木)の頭にカラスの巣ば作っとって言うたろうが」て言いんさったもんじゃ、八兵衛さんな 「ええくそ、七兵衛にやられたばい。馬八匹持って来っけんが、待っとかい」て言うて、別れんさったて。 そして、八兵衛さんは 「ああはがいさ、馬八匹もやらるっもんか。」と、やせこけた馬に鉢ば八つ引かせて、七兵衛さんの家さい行たて、 「七兵衛おっか、馬八匹持って来たけんが受け取ってくれんかい。」て言いんさったぎ、七兵衛さんの、 「そりゃあ、すまんない、馬八匹もただで貰うて。」て言いながら出て来たいば、馬は一頭しかおらんもんじゃ、 「八兵衛、馬は一頭しかおらんやっか」て言うて腹かきんさったて。そいぎ、 「なんちいよっか、おりゃあ、馬八頭てん言うとらん。馬八匹て言うたろうが、馬に鉢ば八つ引かせて持って来たけん、馬八匹(鉢引)やろが。」て八兵衛さんの言いんさったて。(合瀬 合瀬秀雄)
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おかねばあさんの佐賀見物
むかし、須田の東古賀におかねさんて言う九十五才になっ、おばあさんのおんさったて。 その、おかねばあさんな、よっぽい元気か人やったばってん、佐賀ん町いっちょは、いっぺんでん見たことのなかったて。 ある日、孫息子が、おかねばあさんに、 「ばあさん、おとんの佐賀ん町ば、いっぺんでん見たことなかて言いよったけん、今日つれて行こうだん」て言わしたぎ、 「ほんなごてや、おいば、佐賀ん町さん連れて行たてくるってや。そんないば、冥土のみやげえ行たてみっか」と、準備ばして二人で出かけらしたて。 そいから、二人で話しどんしながら、歩いて行たて、ちょうど昼頃尼寺に着かしたて。 おかねばあさんな、珍しかもんじゃ、きょろきょろしたて。そいぎ、そこに、白うして、四角っかとに、「あめがた」て書いちゃったて。そいば見たおかねばあさんな、腹ん減っとったもんじゃカブッと、かぶいつかしたて。 店ん人は、びっくいして、 「あめがたは、こっちいあっばんた、そりゃあ看板じゃっけん、うち食わあじおってくんさい」て言んさったて。 「そがんなんた、白うして、四角っかったもんじゃ、あめがたてばっかい思うとった。そいけん、えりゃあ硬かったもんなたあ。そんない本物のあめがたば、四、五本くんさい」 て言うて、おかねばあさんはあめがたば、五本も食べらしたて。その上、今度はうどんば二杯も平らげてしまいんさったて。 そいて、腹ごしらえもできたもんじゃ、又、二人で佐賀さん歩いていきんさったてっ。 いっとき歩いてから孫息子が、「ちょっと、よくおうかなんた、おばあさんなきつかろうもんじゃ」 「そうない、佐賀ん町迄もそがん遠うなかないちょっとよくうていこうか」と、道ばたに二人で腰かけてから、おかねばあさんのびっくいしたごとして、 「こりゃあ、田ん中の広かない、日本国ちゅうぎ、ここんこっば言うとじゃろう」と孫息子に言いんさったて。そいぎ孫息子は、 「おばあさん、日本国ちゅうたあ、ここんふた広さあっばんた」 て言わしたて。 そいから、又佐賀さん歩いて行たて、着いた時は、もう、薄暗うなったもんじゃ見物は明日ん事にして、宿屋に泊んさったて。 宿屋で、そこの主人さんの、おかねばあさんに、 「おばあさん達ゃあ、どっから来んさったかんた」て聞きんさったぎ、 「わたしゃあ、須田町ちゅう所からたんた」て言いんさったもんじゃ、 「須田町かんたあ、古湯ては聞いた事のあっばってんが、須田町ては聞いた事のなかなんたあ」て、首ばかしげんさったて。 そいから、晩めしには、ぼた餅ば出しんさったて。そいぎ、おかねばあさんな餅ば好いとっもんじゃ、太かぼた餅ば、二つ食べてから、 「もういっちょ、餅ばくんさい」て言うて、三つも食べんさったて。 そいば見た宿屋の主人は、 「おばあさんな、元気かなんたあ、そして、食のいけもすっ」と、あきれてしまいんさったて。 あくる日、おかねばあさんと孫息子は、佐賀ん町ば色々見てまわい、帰りいは、人力車に乗っことしんさったて。人力車に、初めて乗っ、おかねばあさんな、 「私ゃあ、下等でよかけんが」て言うて、足のせの所にすわろうでしんさったて。そいぎ、車屋さんのびっくいして、 「そこじゃなかばんた。そけえ乗んさっぎ、車ば引く時きつかけんが、上の方に座ってくんさい。下でん、上でん、値段は同じばんた。」て言いんさったもんじゃ、 「値段の同じないば、遠慮なしい上等にお世話なろう」て言うて、いすの所にすわんさったて。 そがんして、川上まで人力車で来て、そこから、又二人で須田さん歩いて、帰ってきんさったて。 (須田 高柳文六)
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羽金山の埋蔵金
羽金山は標高900mほどで、7合目あたりは薙刀石、畳石、戸棚石、燕石などと名付けられた巨石群がある。 寛永14年(1637)島原の乱が勃発した。筑前の福岡藩52万石も、幕府の要請を受けて、島原鎮圧のために出動をした。その途中、長野峠付近で軍用金50万両のうち10万両が消え去ったという。その後、10万両を求めて多くの人たちが探したが、どこにも見つからずいつとはなしに忘れさられてしまった。ところが享保4年(1719)2月、筑前国怡土郡長糸村に住む、猟師源兵衛の庭先に血まみれの浪人風の男が倒れていた。源兵衛は急いで傷の手当てをしたが、「羽金山に黄金十万両」と言い残して息絶えてしまった。源兵衛が浪人者の懐中をさぐってみると羊の皮に書いた地図と十字架のついた印籠がでてきた。これが黄金を隠した地図かと長糸村の家をたたみ、羽金山の南側の中腹に小屋を建て、黄金探しに没頭した。しかし、黄金は見つかることなく時のみが過ぎ去っていった。ある日のこと、いずこの者とも知れぬ男がやってきて、自分は黄金を探していると話しをして立ち去っていった。数日後、源兵衛が秘密の地図を持っていることに気づいた男によって殺されてしまったという。黄金をめぐる悲しい結末であった。 これは「黄金の秘境」のテーマで書かれた志摩達夫氏の作である。
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ジョボッ(成仏)さん
即身成仏をしたお坊さんの言い伝えがある。生きながら埋まり、地の底からリンの音が聞こえていた。誰かが息抜きの竹に栓をしてしまったので、いつのまにか音が聞こえなくなってしまったという。東古賀にある墓と思われるところには石祠に小さな僧形の像が納められている。伝説により明治22年に有志者により建立されたものである。日池にも同様の伝説がある。 生きたまま、悟りを開き仏になるという即身成仏の伝説は全国各地にある。
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栗並の言い伝え
田中地区に田中右近守あり。三瀬の神代勝利より呼び出しあり、帰ってこなかった。行く前夕顔(かんぴょう)の汁を吸ってから行かれたので以来、当地ではかんぴょうを作らない。
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春日神社伝説
「大野坂城、しれ石の殿さん墓」 從五位左衛門行高は、藤原鎌足の7代の子孫藤原秀郷の7代目の子孫である。源頼朝は行高が平家に属せず、源氏に忠誠を冬尽くしたので、近江国神崎郡常富庄嘉村名の地頭職に任じた。 嘉村行高から5代目の左近将監俊行は、弘安2年(1279)9月、探題千葉介宗胤が肥前に下向した時、宗胤に従って小城郡に下向して来た。そして休息所を賜り、麻那古村大野坂に城を築いてここに住んだ。それ以来子孫は麻那古に任ぜられ、十余代つづき嘉村備後守に及んだ。嘉村備後守の子内記に嘉村新左衛門尉と右衛門尉と助五郎と言う3人の兄弟があった。嘉村備後守一族は龍造寺と近かったのか、新左衛門は弘治元年(1555)神代勝利と戦い、池原で戦死した。その弟右衛門はその戦いで麻那古の和田で衆寡敵せず討ち死にした。嘉村備後守の弟嘉村左衛門大夫は、龍造寺隆信の島原討伐に参加して、華々しい戦死をした。
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銭がめ
昔、麻那古より大串へくねくねとした細い道が続いていて、小串川へ丸木を並べた橋を渡り、しばらく行くと「かんすんつる」と呼ばれる、今で言うU字型の道を通り、それから少し行くと地面のやわらかな所に来る。 そこを強く踏むと、地の下から「チャリン、チャリン」と音がする。この下に銭の入ったかめがあるにちがいないと思った人々は、私にもお銭が廻って来ます様にと祈りながら、「チャリン、チャリン」とかすかに聞こえる音をたしかめながら通った。 そして、そこを人々は銭がめと呼ぶ様になった。
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鶏(にわとい)曲い
皆が手仕事で田んぼを開いていた頃のこと。「陣八の下ちゃあかくるるごたっしこでん広げんばー」と頑張っていたおじいさんが居て、ある日、自分の田に県道が通ると聞いて「こりゃあ大変」と、お役人の所へ鶏小屋の中から一番ふとった鶏を籠に入れて持っていった。 そして、 「苦労して開いた大事な田じゃっけん、県道は山際の方さんまわして通してくんさい」と一生懸命頼んだ。役人は困ったがあまりの熱心さにとうとう道は山際の方へぐりいっとまわして通す事にした。それからそこの道を「にわといまがい」と呼ぶようになった。