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[物語・いわれ][物語・四方山話][蓮池校区]は11件登録されています。
物語・いわれ 物語・四方山話 蓮池校区
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花見
蓮池公園の桜は見事であった。桜の馬場は、まさに花のトンネルで、オートバイサーカス、見世物小屋、射的、土産物屋が、馬場の両側にずらりと並んだ。園内には茶屋が出来、三味線の音や、人々のざわめきが夜遅くまで続いた。当時は夜になると蒲田津方面までも、その音が聞えたという。江下伍長銅像の前に、1.000燭、男山に500燭の特設電燈が明るくかがやき、踊り舞台では仁輪加や、浪花節(さいもん)が演じられ、老いも若きも心から春の1日を楽しんだものである。 現在蓮池公園は市営となり、神野公園と共に佐賀市民の憩いの場として、計画的に整備されている。戦中、戦後に荒廃した桜も、若木が植えられ、公衆便所も整備され、護岸工事も立派に出来た。交通の便もよくなり、桜の頃の人出も漸次増えて来ており、青年団の桜花の下の茶会は恒例の行事となった。つつじも、藤も再び美しい花を咲かせてくれる様になり戦後の荒廃は語り草になってしまった。しかし、宗像宮、先得亭、尚武会等、その姿を永久に消したものも多い。かって成章館に、講肄場に、文武の道に励んだ先人の姿も、今は偲ぶすべもないが、市営公園として生れ変った蓮池公園は、新しく育ちゆく桜の若木のそれの如く、新しい市民の憩いの場として、また、古い伝統の中に、何時までも蓮池人の心の故郷として、その立派な環境を保ち続けていってもらいたいものである。(昭和49年資料作成された時の状況)
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蓮池と平氏1
下って平安朝の末期、平氏最盛期の頃、土肥左衛門尉宗綱という人が蓮池の押領使として任命されている。土肥はもと山辺氏で武蔵にいたが、のち相模国土肥に移り地名をもって姓とした。平重盛に仕えその家人となっている。 宗綱が蓮池に居た期間は判明しないが、その子家綱は四国土佐国高岡に押領使として派遣され、平治の乱後平氏の命を受けて土佐冠者源希義(義朝四男)を殺し、功に因って土佐国を賜わり蓮池城を築き定住した。『吾妻鏡』に「寿永元年(1182)小松内府の家人蓮池権頭家綱等、土佐冠者源希義を殺す。」との記事がある。家綱の後裔はさらに大平と改姓したようで『土佐遺語』に「蓮池城は大平氏13代伝領せり。大平氏は吾妻鏡にいう権頭家綱の後なり。」とあるのをみても知られる。土肥氏が蓮池押領使として来任したことを考えると、当時蓮池は相当知名の地であったものと想像される。
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小田氏の統治2
今を距る約580年前、小田直光がこの地に来り、肥前国佐嘉、神埼、筑後国三潴の三郡に亘り6.000町歩を領し、城廓を構え勢力を張った。この時の城名を小曲城(蓮池城ともいう)と称し、城域は今の諸富町加与丁、小曲地区より蓮池公園所在地付近にまたがり、本丸のほか3か所の出城があった。しかも城の外濠は筑後川に連なり干満の差甚しき急流の江湖であったため平城としてはなかなかの堅城であった。かつて中国の太守大内義隆が来攻したときも小曲城の攻め難きを知って攻城を断念して兵を還したこともあり、また龍造寺氏も幾度か攻略を企てたが非常に苦心したとの伝えもある。 小田氏の祖先は鎌倉幕府源氏3代に仕え、武人としても文人としても有名であった八田知家である。その後裔が、何時の頃からか関東より鎮西に下り、その後、筑後方面で栄えたものが小田氏を姓としたと伝えられている。直光以後鎮光に至るまで8代、約160年間この地方の領主として勢力を保った。第6代資光(覚派入道)、第7代政光、第8代鎮光の3代の頃は龍造寺氏の覇業成らんとする時期に当り互に角逐を繰返していたが、鎮光の代に至って龍造寺隆信の詐謀によって祖先伝来の居城を去り多久城に移り、ここに蓮池の地は龍造寺氏の領するところとなった。 なお、蓮池城を去って多久城に移った鎮光は、元亀元年(1570)大友軍が大挙入肥せる際、大友軍に組し手兵を率いて多久城を出で、水上山に陣を敷いた。しかし、大友軍は今山、その他の地で敗戦したため、鎮光も筑後に逃れ流浪するに至った。隆信は、鎮光が女婿の身でありながら反逆したことを憤り、鎮光の妻室阿安を説いて鎮光を誘引し、客舎に腹臣を忍ばせ暗殺せしめた。ここにおいて小田氏は直光から8代、鎮光に至って滅亡したのである。
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小田氏の統治
小田一族の墓碑は今は巨勢町東巨勢龍津寺にあり弔う人も稀のようである。 さらに小田氏にかかる悲話は鎮光の妻室阿安(おやす)である。阿安は龍造寺家の嫡流たる胤栄の女であったが、父が死んで母が隆信に再嫁したため阿安も隨って隆信の女となった。隆信の政略的犠牲となって鎮光に嫁せられたのである。鎮光の惨死に悲しんで自殺を図ったが果さず、さらにまた唐津城主波多三河守親に再縁を強いられた。しかるに波多氏は征韓役で戦陣中卑怯の振舞があったとして改易遠流となり、第2次征韓役で戦死を遂げた。そこで阿安は佐賀に帰り尼となった。静室妙安尼と呼ぶ。現在妙安寺小路に所在する妙安庵は同尼の庵室があったことに因んだものである。 阿安に関してはその容姿が頗る美しく、豊太閤が名護屋に滞陣中、阿安の世評を耳にし召見を強いたところ阿安は自らその面を焼いて謁し太閤の意に逆った。このことが夫三河守親改易の因となったとも伝えられている。
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龍造寺氏から鍋島氏の統治まで 1
永禄元年(1558)11月中旬頃、龍造寺隆信は江上武種(神埼、勢福寺城主)が少弐冬尚を援けて佐賀城を攻める計画があるとし、先手を打って江上武種を攻めた。この時、先陣を命ぜられたのは蓮池の小田政光、直鳥、崎村、蒲田津の三犬塚氏で、隆信は本陣を姉川城に置いた。 小田政光は龍造寺に降った証拠をみせるのはこの時とばかり、現神埼町莞牟田縄手で江上の軍と会戦した。この時味方が苦戦に落ち入ったため政光は再三にわたり姉川に陣する隆信に援軍を請うたが、胸に一物あった隆信は遂に援軍を出さず、憤慨した政光は大奮戦のあと戦場に散った。このようにして隆信は小田政光を見殺しにしたあと、兵を分けて政光の居城蓮池城を急襲し、ここに蓮池城は龍造寺に帰した。この時、小田の老臣深町入道理忠は蓮池城の木戸を守ってよく防戦し、そのすきに政光の子、鎮光、朝光、増光ら家人一同を三潴郡に落し壮絶な死をとげた。 蓮池城が龍造寺に帰してからは、その一族である龍造寺長信、および家晴等の居城となっていたが、天正12年(1584)隆信が島津家久の軍と島原で戦って戦死するや鍋島直茂が替って蓮池城を守り筑後に備えた。その後間もなく神埼城原城主江上家種に蓮池城を与えた。現在の神埼町、城原町は、その時家種に従って蓮池に移り住んだ人達が付けた名称である。また、佐賀藩初代藩主勝茂公は幼時江上家種の養子となっており蓮池城小曲の館にあって西小路の徳恩寺で学んだ。 文禄2年(1593)家種は朝鮮の役に出征したが釜山浦で客死したので蓮池城は再び鍋島直茂の有に帰した。さらに、鍋島直茂、勝茂の両公は慶長5年(1600)から同16年(1611)まで蓮池城に住み、この間に勝茂の庶長子で後の小城藩主となった元茂が出生している。
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龍造寺氏から鍋島氏の統治まで 2
慶長16年、鍋島一族は新築なった佐賀城へ移り、蓮池城は城代に管理させているが、『佐賀年譜』によれば「石井党の頭々へ城代、城番を仰せ付けられたり云々」とあり、その役割は次のようになっている。 御本丸城代 石井孫右衛門 駕輿丁出城番 石井五郎衛門 小曲出城番 石井壱岐守 蒲田江出城番 石井又左衛門 この石井一党による蓮池城の管理は元和元年(1615)大坂夏の陣によって豊臣家が滅び、徳川政権が確立するとともに出された「一国一城令」の公布によって蓮池城がとり壊されるまで約4年間続いた。 この時とり壊された蓮池城の天守、櫓、塀等の材木や瓦をもって佐賀城の本丸や二の丸が構築されたのである。
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蓮池藩の成立
寛永14年(1637)10月中旬、島原、天草のキリスト教徒が蜂起し、島原城を攻めた。このことは11月9日になって江戸に急報され、九州の各大名は急遽領国に下ったが、鍋島家では勝茂の子元茂と直澄が14、15日相次いで江戸を起って下国した。12月5日、元茂、直澄は佐賀に着き、元茂は搦手、直澄は大手の指揮をとることになり、佐賀勢の総指揮官には直澄がなった。佐賀勢は立花、有馬、松倉の諸勢と共に上使板倉重昌の指揮下に入り、19日から原城の攻撃にかかった。戦闘は激烈で久しきにわたったが直澄はよく戦い戦功が少くなかった。直澄ときに23歳であった。 鍋島甲斐守直澄は佐賀藩初代藩主勝茂の三男である。勝茂はかねて2代藩主に予定されていた忠直が若くして病死し、その子光茂(4歳)が幼いことから三男の直澄に家督を譲ろうとした。しかし幼少とはいえ嫡男の子が現存しているところから当時小城藩主であった元茂等の強い反対があり、勝茂も強いて押し切ることが出来なかった。 このような事情があったところへ直澄の島原の乱における優れた戦功もあり、寛永16年(1639)藩主勝茂は直澄に対し藩領のうち佐賀、神埼、藤津、杵島、松浦5郡の地から79か村52.625石を分ち、蓮池に封じ、諸侯に列せしめた。ここに鍋島直澄を初代とする蓮池支藩は成立した。
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戊辰戦争と蓮池藩
明治元年5月3日、王政復古後間もない新政府に対して奥羽列藩同盟が結成され、さらに北越諸藩が加わって反政府軍が強化されつつあった。これに対し新政府は5月9日、東北諸藩親征の勅書をいただいて各藩に出兵を命じた。このため蓮池藩もこの年10月5日奥羽に向けて出兵した。即ち、石井靱負を隊長として士卒365名、軍夫180名、総員545名をもって編成された蓮池隊は伊万里郷楠久から傭船した英国船に乗船し、日本海を北上、途中佐渡国夷港で飲料水を補給して同月16日に羽州秋田船川港に上陸、直に東北游撃軍久我将軍(公卿出身)の部属として陸路酒田に行き寺院、その他に分宿した。このとき出雲国松江藩の兵士350余名もまた同地に駐屯しており、この両藩兵でもって酒田を警備した。戦乱の鎮定後蓮池藩兵は陸路江戸(当時すでに東京と改称されていた。)に出て麻布龍土町の藩邸で慰労の宴を受け横浜から英船サクラ号で兵庫に入港したが、同港で我兵と船員との間に紛争を生じ兵庫西裁判所に訴う等の事件があり、藩は和解のため停船の損金600両を支払って解決した。兵庫からさらに海路長崎に上陸し、諫早から渡船数十隻に分乗して早津江につき蓮池に凱旋した。この日明治2年10月7日、前年蓮池を出てから1年と2日を経過していた。またこの戦役のため、戦没した方は堤嘉一郎ほか計6名であった。後年その出征の事蹟を後世に伝えるため有志の基金によって明治37年3月蓮池公園内に記念碑が建立された。この碑には戊辰戦争の出征者全員の氏名が刻まれている。なお、記念碑の篆額は游撃軍参謀長船越洋之助、即ち、後の男爵船越衛の書である。
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佐賀戦争における蓮池隊 1
明治7年1月、参議兼司法卿江藤新平は征韓論主張に敗れて薩摩の西郷隆盛等と共に職を辞し帰郷した。旧士族江藤新平を迎えた佐賀においては、江藤を支持する朝倉弾蔵、中島鼎蔵その他が同志を募り征韓党と号し、政府に建白書を提出すると同時に、征韓党趣意書を配布して全国の同士によびかけた。かくするうちに日を追ってこの論盛んとなり、その党に集まるもの2.500名に上り、遂に県金庫を掠奪し、県官の命令を聴かず、県官吏が庁舎を棄てて赤間関に遁るゝに至った。 一方、前秋田県令島義勇もまた、官を辞して帰郷し、「君側を清くするがために現政府を倒すベし。」と主張した。これに賛同する者1.500名に達し憂国党を称した。 征韓、憂国両党の主張には多少の差異はあったが、現政府を倒そうとする点は同じであり、ここにおいて斡旋者があって両党は固く結び檄を遠近に伝え、旧三支藩は勿論、武雄、多久、諫早、久保田等の各邑の有志にも加担を求めた。
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佐賀戦争における蓮池隊 2
このような情況の中で蓮池士族は旧藩校成章館に集合して賛否を問い、激論の後には遂に刃傷沙汰にまで至らんとした。そこで衆議をもって陣内利武を佐賀軍本営のある川上実相院に派遣して両党主に面接し、蓮池士族の実情を伝え、かつ両党主の意向を求めさせた。これに対し両党主は、蓮池の軍事上の重要性を説いて加担を強請して止まず、「佐賀に加担しない場合は自衛上蓮池の人家をことごとく焼却し、もって官軍が占拠しても戦略上の価値なき地となさざるを得ず、しかる場合は人家のみに限らず一般市民の生命もまた保障し難い。」と主張した。利武は帰って以上の情況を皆に告げ、かつ、「土地と人命を救うためには佐賀軍への加担も止むを得ない。」と説き、皆もまた余儀ないことであるとして佐賀軍への加担を決定した。そこで一般市民に対しては戦禍を避け安全なところへ避難するよう説き、一方、当時佐賀県庁に蓮池士族中島修平という人が県官として勤務していたことから大塚成章を県庁に派遣して政府方の情勢を確かめようとした。かくするうちに佐賀軍は2月16日から佐賀城を囲み、18日、県庁を占領した。官軍は18日早朝、城門を開いて突出し、一隊は諸富方面へ、一隊は蓮池、境野、城田、千歳方面に向って脱出した。この日、佐賀軍に加盟した蓮池隊は巨勢村高平まで進撃した頃、斥候から「佐賀勢が蓮池方面に向って進撃中。」との報告があったが、当時、両軍の服装はともに洋服を着用し、官軍は腕章黄色、佐賀勢は赤色を付けており、脱走兵は脱走の途中、避難中の子女から赤布を受け、佐賀軍同様赤腕章を付けていたため、斥候は誤認して佐賀軍と報告したもので、このため蓮池隊は官軍を見逃がす結果となった。しかも、官軍が通過した村落に村民の死傷者を出すことになったのである。その後、蓮池隊は三川村、千歳村方面の防備に当ったが、優勢な官軍が三川村に反撃してきたるや千歳村に撤退した。まもなく反乱は終結し、兵を解いて官軍に降ったのである。この戦争によって蓮池隊の主なる幹部は禁固刑ならびに除族処分となった。また、蓮池地区の犠牲者は10名、現在蓮池公園外の招魂碑に祀られるほか、万部島招魂碑にも合祀されている。 万部島所在の招魂碑の祭典は毎年4月13日、両党首および幹部級処刑の日に行われ、蓮池招魂碑は殉難の日、2月18日に慰霊祭を行う習慣になっている。
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直與公御贈位記念運動会
直與公の国を思うの情は帰田の詩にあらわれている。その事蹟により正四位の御贈位となる。これを記念して、明治末から大正時代、盛大な運動会が蓮池公園(新公園と言われた)で開かれた。 蓮池・城田等は勿論のこと、旧藩領の塩田・五町田久間・吉田方面からも出場と応援があり、北方や、神埼郡、三養基郡の山手方面からも来場し、「殿さんの運動会」として、非常に盛大なものであった。 諸方から寄付された優勝旗などもあり、村を挙げて、近隣にも評判する賑々しい大会であった。 直線のコースで種目も多くなかったが、いかにも大正期の「運動会」らしい盛り上がりと興奮をよんだ。 後、学校に場所が移ったのも、一つには、「人が入りきれない」ことにも理由があった。 明治44年から大正10年頃まで、同じように開催された。