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[物語・いわれ][物語・四方山話][鍋島校区]は13件登録されています。
物語・いわれ 物語・四方山話 鍋島校区
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入れ薬屋さん
富山県や奈良県や田代などから回ってくるおなじみの「置き薬屋」、即ち売薬業者のことで、昔から残っているのどかな風景である。家庭で緊急時に必要な腹痛、歯痛、頭痛、かぜ薬や、のべ膏薬、貝がらにつめた白膏薬などの薬が主で、便利なものとして忘れられず利用している家庭がある。
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綱敷天神さん
蛎久の犬塚さん北裏、古賀さん宅の北に小竹が茂り、三方堀に囲まれているところが「綱敷天神」のあとであり、東側の堀を天神堀(てーじんぼい)と呼んでいる。 察するに、菅原道真公が太宰府に流されるとき、船でこられ博多に上陸されたが、突然のことなので高貴な方を受けいれるところもない。とりあえず新しい船のとも綱をぐるぐるとまるく巻き、お迎えされた。そこで人々は、綱の上にお坐りになる天神様、綱敷天神と呼びあがめた。 太宰府天満宮から蛎久に神霊を迎えるに当たり、綱をしき中宿的なところを設けたあとではないだろうか。こうしてここが綱敷天神といい伝えられているのであろう。
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イッチーの木
樹令……350年以上。『名木、古木』 鍋島直茂、成富兵庫などが亡くなった頃の生まれで天満宮境内にある。 イッチーの実の熟したものは、色がとても美しい。ドングリの背くらべというがイッチーもほとんどが形にかわりがなく整っている。コマ等を作って時間のたつのも忘れて遊んだ。今のように電池を入れた遊び道具などなかった時代は貴重なもので、子どもの財産くらべにはその数がものを言った。 手に入れる方法は ・石か瓦を、なっている枝に投げあてて落す。 ・朝はやく、提灯つけて落ちたものを拾う。 ・堀に落ちたものを、椿の葉をまるめて竹の先につけ水の中から拾いあげる。 ・ゲーム(イッチーあて)に勝つ。
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野狐
川上川の官人橋よりずーっと下んほうの、蛎久のほうに通ずっところの渡しのところで、婚礼のりっぱな衣裳にしやいて、渡しに乗ってじゃーもん、そいぎ、「こん畜生、また、がんして行きよいひっだぐった。」て思うて、その船頭さんがひっくい返しなったて。そいぎなた、そいから先ゃあ、もうあがんして船頭さんの小屋はつん燃えたて言いよんさった。そしてもういくら船ば作ってもなた、そこは晩には渡られんて言いよいなった。そいどんが、わやくして。
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野狐のご膳迎え
野狐の嫁入りちゅうとはもう、どうしたっちゃ、あがんと、ちょうちんばね、もう、ちょっと、ほんなちょうちんのごとっ、ずっと渡っていくよ。あの土手(チィチィ)ば。 あたいどま八戸村おったけんがさい、あのチィチィ土手はね、もう、裏からひょーんと、しるっわけ。そいぎ、あの土手がもう、ひとばなれのねぇ。馬の死んぎ、あのチィチィ土手の下のよしのさい、竹のごとっして、太うしてよしでん広かもう。そこのきわに馬ば埋めていたて。そいけん、誰でんよおそうの悪しゃ通いよらんやったて。そがんところしか野狐はおらんわけ。 野狐のご膳迎えちゅうてね、嫁御ばね、持つときは。そいぎね、そのちょうちんのね、もう、ちょっと、明かかごういのさがったとと同じこと。そや見たごとあっ。
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野狐と祝儀帰り
うちの親父さんたちゃ、祝儀てんなんてん行たてね、嘉瀬の手前にチィチィでぇちゅうてー本橋のあんもんね。私の親父さんは嘉瀬元町からもんじゃけんが、よう祝儀とか行きよらしたて。祝儀のみやげがもう、酔ぇくろうてチィチィでぇば来よって。そうして、みやげば酔ぇくろうとっばってん、もう、わが両手にさげとった、わがおべぇちいとらす。ち、言わすわけ。 そうして、わがもう、なんもかいも泥んごとなって、酒飲みよらしたわけ。そうしてなんたぁ、深町のその、チィチィでぇちゅうところが両方に、やぼのあって、あっこはでぇじゃもん。そして、向こうは一本橋のチィチィでぇじゃもう。そこがゆう野狐のおったところなた。 そいぎ、そこば帰って来んば八戸村まで帰って来られん。そいぎもう、来っときなんたぁ、もう、野狐の足型のこのじばんに、いっぴゃあ、犬の足型んごたっ。そうしてなた、もう、なんでんもう、手のごいで折り結めんごたっとば結ってさげて来ないよった。もうそこからぶつっとおし切れて、手のごいばっかい持って来ないよった。
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狐の話
明治から大正にかけて、お宮の近くに鎮守の森があった。そこには、たくさんの野狐が住んでいてよくいたずらをしていた。 ある日、八戸村に住んでいた林幸さんが親類のこんれいによばれたその帰り、酒に酔うていい気持ちになりふらふら歩いていた。土手にさしかかって一やすみするときまではおみやげを手に持っていたことはたしかだった。 ところが、一息ついてごちそうを持って帰り、家でひらいてみたら、野菜を藁でむすんだものだった。
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狐の見送り
大正8年ごろ、あるおばさんが、神野町に毎日田んぼの小道を歩いて通勤していました。ある日のこと、夕方、帰ってくる途中で日がうす暗くなってきました。おばさんは急いでいましたが、おきの森にさしかかると、急に右の肩が重く感じました。うしろを向いてもものかげはありませんでした。おばさんは、さらに急いで歩いていますと、左の肩まで重くなってきました。おかしいなと思い思い、自分の家の橋にきたら、急に肩がかるくなりすっーとしました。うしろをふりむいたときは狐の姿はありませんでした。おばさんは、これが狐の見送りだなと思いました。今でもその森口はのこっています。
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ゆうれいのおはなし
明治の頃のお話です。 ある村にひいおじいちゃんが住んでいました。ひいおじいちゃんには、とても仲のよいお友だちがいました。 ところがある日、お友だちがお亡くなりになったので、ひいおじいちゃんは悲しみました。それから10日ほどたったころ、田んぼの見まわりに行って帰る途中、一本の柳の木があるところに亡くなった友だちが立っていました。ひいおじいちゃんはびっくりしましたが、お友だちと話しをしたそうです。ひいおじいちゃんに、ゆうれいとなって逢いに来たのは、まだこの世に悔いが残っていたからでしょう。
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河そうの話
あたいどんがこまか時分に、河そうから取られて死んじゃったいね。おどま見ぎゃ行たことがあっじゃん。八戸村まで見ぎゃ行たよ。 八戸村ちゅうところは太か百姓ばっかいじゃん。そけぇ20ばっかいなっ姉やんがいたて。みんな昼あがいしてから姉やんが1人してあせらんば。男どんはしっきゃあ昼飯くうぎ田ん中さい出てしまうわけ。そいもんじゃっけんが、その姉やん1人して気のもむっ。そいが昼飯くうてじきやっけんもう、ぬっか最中じゃん。そいもんじゃってが、その家の裏のふとか濠に「ああ、ぬっかったぁ」というてね。川じのところまで飛び込うだ時まで見といなっさい。そいから先は姉やんがいつまでもあがってこんもんじゃさい。 「もう、姉やんが飛び込うでから、もういつまってん出てこん」 て。そいぎ、出てこんもんじゃい、うちは、大騒動たい。そいぎ、あんた、河そうがさいもうね、尻からさい、じごのいっぱい出とったよ。あたいが1年生にいきよった頃、7つか8つかやったぁ。 棚じのとこれぇ髪でん、くう長うして、そのままあげたばっかいしてやった。そりゃーじごの出とった。
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川そうくぐり
現在の中島荒太郎さん、渡瀬秀来さん宅の間の橋あたりを川原口という。 いまから4、50年前までここで「川そうくぐり」という行事があっていた。 長さ5mぐらい、太さは大人の腕ぐらいにしたコモを固めて、川の中にアーチ形に門をつくる。神主さんの祝詞のあと、コモで作った帽子大のものから四っ足を出したようなものが川上から3度流される。行事がすむと橋のそばに並んでいた4、50人の童たちが一斉に川の中に入り、アーチの門を3度くぐる。 瓶を持ってお宮まで一目散に走って順に並ぶ。盃2、3杯の神酒をもらって引きあげる。 この川を今、島とり川といっているが、長老の話では四万取り川だということである。四万ということはたくさんを意味する。たくさんの童が洪水や水泳などで溺死した。これは川そうという動物に取られたのであろうということから、川そうくぐり行事がはじまったということである。
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鍋島消防団
佐賀市消防団鍋島分団第1部に受け継がれている貴重な消防団の沿革は以下のとおりとなっている。 1.私設消防組の設置 明治10年 2月 蛎久消防組設置 明治33年11月 鍋島消防組設置 2.大正15年11月 公設鍋島消防組に改組 1部:蛎久、3部鍋島 3.昭和14年 4月 警防団に改組 4.昭和23年 9月 自治体鍋島村消防団に改組 昭和27年9月に第5部を森西に設置 蛎久消防組は明治10年の設立で、鍋島村誕生以前の蛎久村と呼ばれた頃であり、地方における消防組としては最先端を行くものであったに違いない。昭和25年10月6日、佐賀市の城南中学校グランドで第1回佐賀県消防操法大会にガソリンポンプ操法で出場した鍋島消防団が見事1位の成績を収めて県下消防の志気を鼓舞し、鍋島の名を博したことは今も消防人の間に語り継がれている。 昭和28年鍋島の大水害の折には遺体の捜索、救護、救助、嘉瀬川本流の堰止め工事に常に率先して活躍し、町民の信望に応え感謝された。その後、諫早の大水害や県内塩田川堤防の決壊の折には、分団をあげて応援に出動し、28水の御恩返しに励み、麗しい行為として賞賛された。
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鍋島婦人会
鍋島婦人会は、戦後混乱した世相の中で初代会長千綿チカ氏の献身的な努力によって、婦人会が立て直され、婦人の教養と明るい社会づくりにを行いながら、地域活動が展開されてきた。また、食生活の改善や消費者グループの育成のほか、ボランティア活動を行いながら、ふれあいを大切にした活動も推進されてきた。しかし、会員の減少などから、婦人会は女性の会と変わり、地域活動が行われている。 (歴代会長) 初代 千綿チカ、 2代 古川ツイ、 3代 富崎初枝、 4代 杉町きよ、 5代 石田よね、 6代 島内たよ、 7代 石丸数子、 8代 古瀬典子、 9代 石川スマ子