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[物語・いわれ][物語・四方山話][大和町]は17件登録されています。
物語・いわれ 物語・四方山話 大和町
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萩原長者と粟長者の伝説
昔、萩原長者と言われる者がいた。彼は用水不足に悩み、春日谷より長堤を築いて萩原に水を引いたといわれ、現に春日より久池井地区の西方にかけ「高段土井」と称する堤防上に水路を設けた長堤がある。しばしば襲来した川上川の氾濫に備えた構造のようで、恐らく灌漑用水ではなく生活用水が目的であったと思われる。とすれば萩原の建物は単なる社寺ではなく、あるいは国庁ではなかったろうか。これらの大工事を完遂するには庶民では到底不可能であろう。 一方、久池井に粟長者がいて、川上川の氾濫ごとに米俵で土俵に当てた。彼が死ぬ時、金椀千束・銀椀千束を「リク」に埋めた。掘りあてた者にくれてやると遺言して死んだという伝説である。和泉・筑後・肥後等にも国府跡に伝説があるが、これらの伝説は当時萩原に権力者がいたことを意味し、長者即国司とみられないこともない。
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慶誾尼と握り飯
慶誾尼は龍造寺胤和の長女で隆信の生母であり鍋島直茂の継母である。豊臣秀吉が母の病気のため東上、ついで下向の際、名護屋の渡しを通った時のことである。慶誾尼は秀吉一行の接待のため、近所の農家から戸板を借り出し、青竹四本を立てて戸板をのせ、飯を固く握って土器に盛り、尼寺の道筋道端に出し置くように侍達に命じた。秀吉は通りがけにこれを見て「これは龍造寺が後家(慶誾尼)の働きに違いない。食料のない道筋で上、下難儀なところをこの心掛けは奇特である。」といって自ら握り飯を手に取り「武辺の家は女までこのように心掛けている。この固い握りようを見よ、土器まで立派だ」とほめたたえ、陶師を名護屋へ呼び寄せて諸将の用器を製作させ、肥前の焼物師の司であるという朱印状(免状)を与えた。その御朱印状には 土器手際無比類 於九州名護屋可為用者也 二十六日 御朱印 土器師 家長彦三郎 とあり、この陶師は高木瀬町瓦屋敷の家長彦三郎といった。秀吉一行が通過したとき、見物した者が、「太閣は小男で眼大きく朱をさしたようで、顔の色、手足まで赤く、華やかな衣裳を着て足半をはき、金の熨斗付きの大小の朱鞘を指し、刀の鞘にも足半一足結び付け、馬上の御旅行でお供にも駕籠に乗った者は一人もいなかった。」 と話している。(葉隠聞書より要約)
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川上たけると真手
第13代景行天皇(※)の第2皇子日本武尊は始め御名を小碓尊といっておられた。このころ筑紫(福岡県)を根拠地にして北部九州地方をおびやかしていた熊襲という豪族がいた。九州全土を征服して各地の穴ぐらに陣を張っていたが、その威勢に恐れて誰一人刃向う者がいない。そこで天皇は皇子小碓尊に熊襲征伐を命じられた。これが西紀82年12月でこれを平定するまでには凡そ6年間かかったという。小碓尊は英智と武勇にすぐれた方で、弟の彦王を大将とし武内宿禰を補佐役として筑紫の穴ぐらの本陣を攻めことごとく平げたが、その時、頭の熊襲たけるはいち早くどこかへ逃げ去ってしまった。あとで、川上へ逃げ込んだといううわさがあったので、尊は筑紫から舟に乗って肥前の堀江(神野町)に一たん寄港してから、さらに舟を蛎久まで進めここで上陸され、熊襲残党の隠れ場所をひそかに確められた。そのころ大願寺の山中で里の娘たちを大ぜいかり集め大酒宴を張っている者があり、それが熊襲であることがわかった。智謀にたけた尊は女に変装し、夜陰に乗じて里の娘たちの中へまぎれこまれたが誰も気付かない。尊は家来たちに酒をつぎながらも熊襲の頭から目を放さず、次第に酔いが回って座が崩れかかったころには、高枕でうつらうつら眠り始めた。ころはよしとばかり尊は「起きよ、熊襲っ」と叫びざま枕をけとばされた。はっと目をさました頭は上半身を起こして「何やつだ」と叫び、あわてて枕もとの太刀に手を伸ばした。それを取らせてなるものかとさっと一太刀浴びせて 「われこそは筑紫で見参した小碓尊だ。天下をわが物顔に騒がしたふらち者め、これが天罰の制裁だ」 と振り上げた二太刀目がみごと頭の急所にきまってその場にどっと崩れ伏したが苦しい息の下から、 「われこそは日本一の武勇者として誇り続けてきたが、われ以上に尊のような智勇権謀者のいることを知らなかった。尊こそはまこと日本一の武勇者なれば以後は日本武尊と尊称し奉る。われはこの川上の土地の名をもって姓を改め川上たけると称せん」 といって息絶えたという。また、尊が二の太刀を浴びせようとした時「待て、われこそは………」といったことからこの辺を「まて村」つまり「真手」という名がつき、現在もその名が残っているという。 そして現在の健福寺の位置より約1kmほど北に最初行基菩薩が創建したという健福寺跡があるが、そこに熊襲の墓と伝えられる墓碑が建っていたという。 ※正しくは第12代
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お不動さんと竜王池
お不動さんで知られている水上山万寿寺の開基といわれる神子和尚が仁治3年(1242)48才のころの話である。ある日、神子和尚が竜渕室という所に端座していると、空がにわかに曇ってきて次第に暗くなり、物凄い雷鳴につれてしのつく雨が降ってきた。和尚は平然と瞑想三昧に入っていたが、一きわ烈しい音響とともに何者かが落ちてきた様子である。見ると庭先に双角鬼面(鬼の形をした)の怪物が2つうずくまっている。和尚は急いで襟にかけていた袈裟をはずして取り押え「何者じゃ」と問いかけると 「私たちは善護・慈済と申す者で竜王よりの使者でございます」 「何のためにまいられた」 「竜王から贈られた水火2振りの宝剣を忠実に護っておられるとは思いますが、この上ともよく守護するよう私たち2人が仰せを受けてまいりました」 というのでいっしょに暮らすことにしたが、2人とも実にまめまめしく働く。3年ほどたってから2人は改めて和尚に切り出した。 「私どもの役目の日限は今日限りでございます。ただ今お暇をいただきたいと思いますが、お望みがあれば何なりと……」 「さようか、ではこの山は水不足で困っている。水を施してはくれまいか…」 と頼んだところ「心得ました」というより早く両人がそばの岩をぽんとけった。ところが不思議にも岩の下からこんこんと清水が湧き出してたちまち池となり、その後如何なる旱ばつにもこの池ばかりはかれたことがないという。この池を竜王池と呼んでいる。 今ひとつこの伝説の変形と思われるものがある。 神子和尚が例のように庭の落葉をはいていると、一天にわかにかき曇り物凄い雷鳴とともに和尚の目の前に雷が転げ落ちてきた。和尚は持っていたほうきですばやくその雷をとり押え、 「ここは天下の大道場じゃ。こんな所に落ちてきて修行のじゃまをしてはならぬぞ」とたしなめられたところ、雷は平伏して 「そんなところとはつゆ知らず落ちてきて悪うございました。以後こちらには決して落ちないように仲間の者にも申し伝えておきます」 とあやまるので許してやった。以後この水上山には落雷することがなかったという。
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孝行鮎
川上川の鮎は鍋島家の御進物用であったためこの辺での川漁は御法度で川目付という役人が厳しく見張っていた。ころは幕末、名君鍋島閑叟公の御治世の時である。佐嘉城下に奇怪な事件が突発した。所もあろうに佐嘉城の大手門に朝な朝な変な貼紙がしてある。その貼紙には文字は1字もなく、天秤の両端に人と鮎とがさがっており、鮎の方に天秤が傾いているという絵だけがかいてある。「一体、何というなぞじゃろうか。天秤の鮎の方が傾いているというからにゃ、人間の方より鮎が重かちゅうことじゃろうて……」と、寄るとさわるとこのうわさばかりである。自然に殿様の耳にも伝わってきた。ところが、さすがは名君、さては! と第六感にぴんときた。お気に入りの小姓に何事かをささやかれた。小姓は取りあえず汗馬にむちうって川上へやってきた。川上で小姓が聞き込んだのは以下の事であった。 4、5日ばかり前のこと、官人橋から半里(約2km)北へ行った中ノ原の若い百姓が都渡城の川岸の岩の上にうずくまってぼんやり川の面を見つめていた。川には1尺(約30cm)に近い大鮎が美しい銀鱗を光らせてぱちりと水をはねている。「ああ、あの鮎が1匹欲しいなあ。今生の思い出に1口でいいから鮎を食べたいという病父の願いがかなうんじゃが………というてあの御法度は破られず……」と思い悩んでいるところへ、これはまたどうしたことか4、5寸ばかりの鮎が1匹、どこでどうして傷付いたのか、目から、えらの所にかけ血にまみれて水面に白い腹を見せながら流れてきた。「おお、鮎、鮎じゃ、まだ死にきれず時々えらが動いている、天の恵みじゃ、拾って帰ろう」と夢中になって拾い上げた。と、その途端、いつの間に来ていたのか、ぐいと襟首をつかまれた。見ると意地悪と名うての川目付である。若者のいいわけを聞こうともせず、「この間からの鮎盗人は貴様じゃな」といいも終わらぬうちに白刃一閃、けさがけに切り下げてしまった。一部始終を聞いた殿様は再び小姓を遣わして、川目付の身辺を調べさせたところが川目付は「お役目大事と務めたばかりで、拙者の心境は明鏡止水、1点のやましいことはございません」と強弁し続けた。だが念のために小姓が台所の戸棚を見ると、そこにはみごとな大鮎が隠してあり、裏の畑の隅からは食い荒された鮎の骨がたくさん出てきたのでもう絶対絶命、その場で自害して果てた。こんな気の毒なことになったのもあの御法度があればこそだというので、閑叟公は川上川の川漁禁止をその日のうちに解いたという。
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雨乞いの竜
竜頭函-肥前州河上-正徳六(1716)丙申二月十八日と墨書した木箱が実相院に保管されている。この箱の大きさはたて84cm、横30cm、高さ28cmで中に55cm大の竜頭が納めてある。 竜頭は竜の頭に似た木の株のようで、木目の突起がちょうどうろこに似て異相を呈している。別に45cm大の全身竜の木彫りをした竜王尊があり、これは手に珠玉をつかみ、うろこを逆立てて将に炎を吹かんとするような美事な彫刻になっている。実相院では雨乞いの祈祷がしばしば行われたようである。土地の人の話によれば近くは昭和14年(1939)8月にこの雨乞いの行事をしたということである。一週間の御祈祷をし、結願の日は村をあげて各地区から鐘太鼓を打ち鳴らして実相院へ繰り出し、箱に納めたままの竜頭を川上川へ運び四隅に張ったしめ縄の中で川につけたという。また、別に二流ののぼり旗があり、それには 赤日焼空八月天 草枯木盡幾山泉 南無東海龍王尊 倒取銀河酒大千 と達者な文字で書かれている。空を焼くような8月のこのひでりに野の草も枯れ、山々の水も泉も尽き果てた。どうか東海竜王尊よ、天の川を逆さにして、この三千世界に水を注ぎ込み給え、という意味だろうか。この竜を「雨乞いの龍」と呼んでいる。
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淀姫さんとなまず
淀姫さんの氏子にはなまずを食うてはならぬという掟があり、食えば腹が痛むといわれている。その昔、川上川には魚もたくさんいたが「かなわ」といって、まむしが年を経て変化したという怪物がいた。夜更けになって官人橋を渡るとこのかなわに襲われて死んでしまうので、土地の人はこの得体の知れない怪物に恐れおののいていた。ある夜2人連れの親子が舟に乗って川魚をとり始めたが、思いもよらぬ大漁なので時のたつのも忘れて夢中で漁をしていた。ところが突然火の玉のようなものが舟へ近づいてくる。あっ、これが日ごろ聞いていたかなわだと思った途端、2人ともびっくり仰天して気絶してしまった。それからどのくらいたったか、ふと気づいて辺りを見ると川岸に30cm余りの大なまずが死んでいた。恐ろしく腹がふくれているので、2人は恐る恐るなまずの腹を切り開いてみるとまさしくかなわをのみ込んでいた。さてはこのなまずが危ないところを助けてくれたのかと感涙にむせび、このことを村人に告げねんごろに葬ったうえ、今後はどんなことがあっても決してなまずを捕らない、なまずは食わないと淀姫神社に固い誓いを立てたという。また、なまずは淀姫さんのつかい(従者)だから食わないという伝えもある。
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宝塔山・書きかけの題目
文禄元年(1592)肥後熊本城の城主加藤清正が、名護屋の秀吉の本陣へかけつけて行く途中、都渡城にさしかかった時のことである。今まで勢よく走り続けていた馬が突如膝を折って動かなくなってしまった。清正は不思議に思ってあたりを見回わすと、そばの大岩壁に「南無妙法蓮」とお題目が彫りかけてある。日蓮の信奉者である清正は「これは?」と里人に尋ねると「これは日親という坊さんの書きかけのお題目で………」と次のように話してくれた。 祖師日蓮の覇気を受け継いだまだ若冠20歳の熱血僧日親が都を後にして日蓮宗鎮西大本山肥前国小城郡松尾山光勝寺に立ち寄ったのは応永32年(1425)も押し迫った12月27日のことであった。名にしおう火の国といえども、師走ともなれば寒さは厳しいもの、白雪をいただいた天山から吹き下す風は肌もつんざく程であった。しかし熱血僧日親には寒さや冷たさは何ともないようである。火を吐くような熱弁はいきおい他宗門への罵言ともなり権門をそしることもあった。「おのれ日親、他宗門を罵る外道奴」とか、「おのれ若僧、権門をそしる横道者」とか、日親への反感憎悪がついには白刃竹槍となってじりじりと彼の身辺に迫ってきた。三日月村(町)の袴田に住む犬山某とその一党に竹槍でねらわれたこともあり、捕われて生きながら石小詰めにされたこともあった。奇蹟的に命だけは助かったが、長崎では頭から焼け鍋をかぶせられたので「鍋かぶりの日親」と言いはやされた。やっとのことで川上に辿り着いた日親は、山にそそり立つ大岩壁に目をつけると、「そうだ、この大岩壁にありがたいお題目を彫りつけよう」と、大勇猛心を起こして「南無妙法」に続く「蓮」の字を彫りかけた時であった。日親をねらう刺客どもが早や身辺に迫ってきたと教えられ、追い立てられるようにしてその場を落ちていった。加藤清正は熱烈な日蓮宗の信者であったので、そのことの次第を聞いて大いに感激した。 「ありがたいお題目をこのままにしておくのはもったいない。あとはこの清正が……」と手馴れの槍先で一心不乱にあとをつけ足した。以後里人達はこれを「書きかけの題目」とか「槍先の題目」とか呼び、清正の馬にちなんでこの寺を「膝折坂の宝塔山」とも呼んでいる。
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宝探し物語
昔、春日村久池井に粟長者という長者が住んでいた。大洪水の時、米をつめたままの俵で堤防を築いたくらい豪勢なものであったが、米を粗末にした罰でもあたったのか、次第に家運が傾き没落してしまった。その長者が死ぬ間際に「リクの中に金椀千束、銀椀千束を埋めてある。掘りあてた者にくれてやる」と遺言して息を引き取ったという。さて、そのリクとは一体どこだろうか。
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六地蔵さん
桃山時代以前の紀年銘のある六地蔵は町内にも幾つかある。そもそもこの地蔵菩薩の梵名は「クシチガルブハ」と言い、五濁悪世から六道の衆生を救済する能化の菩薩であると伝えられている。この六地蔵は北九州一帯に最も多く、県内にも相当数あるということだが、まだ専門的研究がなされていないのでどういうものか判明しない。久留間地区にあるのは永禄4年(1561)に村中で建てられたもので何かの御願成就のためと伝えられている。横馬場のは天文2年(1533)とあり、川上には2つあるが、天正5年(1577)8月のものは妙林禅尼のために建てたと判読される。 今ひとつ、天文14年(1545)正月、佐嘉城が少貳の軍勢に攻められようとした時、城主龍造寺剛忠入道家兼(時に92歳)が綾部(三養基郡)城主馬場頼周の謀略にかかり、そのことからわずか2日間に龍造寺家の柱石と思われる6人が全滅したが、因果はめぐるというか家兼は間もなく筑後から帰城し、同年4月2日頼周、政員父子を逆襲してその首級をあげ一門の仇を報いた。しかもその恩怨を越えて頼周父子を万寿寺と高城寺に葬り手厚い供養をした老雄の武士道美談を残したが、その後、川上地方に異変が続き、これは淀姫神社々頭に悲惨な最後をとげた龍造寺一門のうらみからであろうという風説が生まれたので、この悲劇から30余年を経た天正7(1579)年に里人らがその菩提をともらうために、淀姫神社の境内に六地蔵を建立したものを、後に三の辻から、かいまがりに移したものと伝えられている。
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高城寺伝説
このお寺の開祖といわれる順空和尚(後の円鑑禅師)の父がある夜夢を見た。1人の沙門がきて、「しばらくお宿をお借りしたい」としきりに頼むが父は「いやだ」と受け入れなかった。父が「あなたはどなたですか」と尋ねると「私は寂照法師というものでございます」といったところで夢がさめてしまった。やがて順空和尚の母がみごもったが、父母は仔細あって京都へ上った。備後(岡山県)と安芸(広島県)との境の所で天福元年(1233)5月1日に無事に男の子が生まれた。それが順空である。父は夢の中のお告げを思い出し、順空が3才になった時「お前は何者だ、末世を聞こう」というと順空は「私は円通でございます」と答えた。父は「さては夢でのお告げは違ったのか、わが夢ではたしか寂照法師という名前だったが………」としばらく思案していたが、ある日白拍子が、わが国で寂照法師と唱えている者は大唐の国では円通大師という意味の歌を歌っているのを聞いて、さてはあの霊夢は間違いではなかったと大変喜んだ。実はこの寂照法師というのは大江貞元入道のことで、唐に渡って呉門寺におり円通大師と称していたそうである。父は寂照法師の再来であるこの童子を連れて水上山の栄尊和尚のもとへ出家させた。栄尊はこの童子に順空と名付けて都へ連れ上った。そして東福寺の聖一国師に会って「この法師は名誉の者である。私(栄尊)のような者の弟子にはもったいない、師の御子として都の法をも教え給え」というと国師は早速承知してくれた。順空はここでしばらく修行してから鎌倉の蘭溪禅師が高徳の僧であるということを聞いて、みずから申し出て鎌倉へ行った。順空が蘭溪禅師を訪ねた前日の朝方、虚空から鷹が舞い下りてきて蘭溪に給仕する夢を見た。夜が明けてから禅師は弟子たちに「今日は必ず不思議な僧が来てわが弟子となるであろう」と語ってからしばらくして順空法師がやってきた。蘭溪は今朝の夢は正夢なりと大いに喜んで師弟の契を結び、順空はここで修行を重ねてすぐれた僧となった。最明寺入道時頼はこの順空に帰依が深く入唐することを勧めたので、唐の経山寺に行き数多の高僧の教えを身につけて帰朝し、文永7年(1270)春日山高城寺を開いて住持になったということである。(肥前古跡縁起より)
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乙文殊宮とたもと石
通称「もいっさん」と呼ばれ、入学や就職試験の願いごとで親しまれている乙文殊宮は文殊菩薩が祀られ、文殊菩薩を祀った神社は全国でも珍らしいという。この神社の創建には次のような伝説がある。 時代はいつごろかわからないが、実相院の竹内坊に文殊さんが祀ってあった。この竹内坊の玄関先に大きな石があり、住職が「この石さえなければ………」掃除をするのに楽だとか、庭のかっこうがどうなるとか、ことごとに愚痴をこぼし、下駄でけるという調子であった。 ある時、役僧がこれを見かねて「この石を私がもらってもよいか」とたずねると 「持っていけるなら今すぐ持っていけ」と荒々しく答えた。するとその夜役僧が衣のそでにその石をつつんで持ち去った。その役僧というのが実は文殊菩薩の化身で石と共に遷座されたという。 この石が文殊さんの「たもと石」と呼ばれ、高さ4.5m、直径9mの巨石で、乙文殊宮より更に550mほど登った所、奥の院の裏にある。
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円山と鎧岩
鎮西八郎為朝は源為義の8番目の子で小さいころから豪胆不敵、傍若無人に振舞うという暴れんぼうであった。 そのためか父の不興を買い13歳の時九州に追われ、後で肥後(熊本)の阿曽忠国の婿となった。剛弓で有名だが、その為朝が九州へ下向した時のことである。為朝は7尺5寸(約2.3m)の弓を持ち、黒羽の矢で、高さ1丈3尺(約4m)、幅1丈余(約3m)の円山鏡石をめがけて射的の練習をしたという。弓を射た場所は川上川をはさんで対岸の八反原で、ちょうど川面に高い崖を作っている曲り角上方の大きな岩である。この岩を鎧岩と呼んでいるがこれは円山から約1kmの距離である。円山は国道から約20mくらいの高さで、周囲は岩石であるが内部は盛土のようである。この円山から少し北方の有ノ木という地区の旧道の山際に高さ80cmの地蔵が建っているが、これは当時下田の旧道を通っていた無名の行脚僧が、為朝の流れ矢に当たって死亡したといわれ、村の人が不憫に思って地蔵を建立して供養したという。(昭、16) この仏を拝むと足痛に御利益があるということで、参拝者はみな「わらじ」をあげて祈願をしたと伝えられている。 円山も今は国道263号線拡張のため、半分が削りとられて往年の姿は見られない。
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母恋雨蛙(子どもに聞かせる民話)
空がどんよりと曇って今にも雨が降り出しそうになる初夏のころになると「キャフ、キャフ、キャフ」というように悲壮な声を出して雨蛙が鳴きます。雨蛙が生まれた時はすでにお父さんはなくお母さんの手で育てられていました。ひとりっ子の雨蛙は甘えん坊でわがままで、お母さんをたいへん手こずらせました。お母さんが「こっちへおいで」というと向こうへ行くし「これは食べてはいけない」というとむやみに食べようとするし、何といっても反対のことばかりしました。お母さん蛙は自分が死んだらこの子はいったいどうなることだろうといつも心配ばかりしていました。ところがどうしたことか、お母さん蛙はある日うっかりして木の葉からすべり落ち、下にあった石で頭をいやというほど強く打ちました。それがもとでお母さん蛙は死にそうになったので子蛙を枕もとに呼んで「お母さんが死んだら川岸に葬っておくれ」と頼んで息をひきとりました。子蛙はとても悲しみました。今まで自分はどうしてこんなにお母さんのいわれることに反対ばかりしただろうか。お母さんは自分が反対ばかりしたために、そのことばかり考えて心配のあまりうっかりして木の葉からすべり落ちたのでは………と、いろいろ考えにふけりました。そして「よし、せめてお母さんが死ぬまぎわにいわれたことだけでもお母さんのいいつけどうりにしよう」こういって子蛙はお母さん蛙のいいつけどおり川岸に葬ってやりました。お母さん蛙は子蛙が何でも反対ばかりするので、川岸へ葬ってくれといえばきっと山へ葬ってくれるだろう………そう思っていたのです。ところが子蛙はお母さんの最後のたったひとことだけは正直に守ったのです。子蛙は雨が降ると水が肥って、お母さんが流れはしないかと心配でたまらないから鳴くのです。
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おば捨て山
昔、ある村では年寄りになるともう役に立たないというので、おば捨て山へ捨てられていた。その村で年老いた母をいよいよ山へ捨てに行くある家があった。その老母をその息子と孫の二人で、もっこに乗せて山へ連れて行った。山にさしかかると、その老母はもっこから片手を出して、少し進むごとに木の枝を折り曲げた。なぜそうするのか息子は不思議に思いながらも別に気にも止めなかった。 やっと山の上へ着いて老母を下し、帰ろうとする息子を老母は呼び止めて「これ、息子よ、もう日が暮れかかっているし、お前達が帰る時、道に迷わないように木の枝を折っておいたから、それを目じるしに帰りなさいよ。」といった。息子は最後まで子供のことを思ってくれる母を捨てた苦しさ、辛さを胸に抱きながら山を下りた。その途中、孫が父に向かって「今度は私達のお母さんを連れて又この山に捨てに行かねばなりませんね」といった。父はこれを聞くやいなや、一目散に山へ戻り、老母を背負って連れ帰った。そして人にわからぬようにかくまっていたが、誰いうとなくそれが知れて、ついに役人の耳に入った。役所に引き立てられた父は事の次第をありのままに申し立てた。それ以後この村ではおば捨ての風習が止まったという。
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お釈迦さまのお見舞
お釈迦さまの病気が重いと聞いて、世界中の鳥や獣や虫達がお見舞いにやって来た。雀は何のおしゃれもせずに、なりふり構わないで真先にかけつけた。お釈迦さまは大変喜んで「お前はなりふり構わず真先にかけつけてくれたから、人間と同じ米を食べてよい」と言われた。それから雀は米を食うようになった。つばめはびんつけ、かねつけしていたので遅れてしまい、得意の物凄い早さで飛んで行ったけれども、お釈迦さまは「お前はおしゃれをして遅れたので虫でも食べなさい」と言われた。みみずもがんばったが大変遅れたので「お前はドロでも食べなさい」といわれた。蛇ものろのろとはってきたので、みみずよりは早かったが大変遅れた。そこで蛇は遠慮がちに「私は何を食べたらいいでしょうか」と尋ねると、先に来ていた蛙が「お前は大変遅れたではないか、つべこべ言わずにおれの尻でもくらえ」と大声で言った。それから蛇は蛙を追っかけて食うようになった。
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今山の戦
元亀元年(1570)、龍造寺隆信は、来襲した豊後大友氏の軍勢を今山(佐賀市大和町)で破った。龍造寺隆信を一躍、戦国大名にのしあげた合戦である。また、鍋島信昌(のち佐賀藩祖鍋島直茂)の実力を大いに認めさせた戦いでもあった。佐賀の桶狭間とも称されている。元亀元年(1570)8月中旬になって大友宗麟は大友八郎親貞を総大将として包囲軍を統率させ、佐賀城総攻撃は8月20日(陽暦9月29日)と定まった。 佐賀城でもしばしばうって出て小ぜり合いがあり敵勢を撃退したが、19日佐賀城では最後の軍評定が行われた。開城説が多く、さすがの龍造寺隆信も止むなく筑後落ちを覚悟したかに見えたが、鍋島信昌(のち直茂)は九死一生の夜討ちを提唱した。成松信勝もこれに同意して、いよいよその夜龍造寺氏の運命をかけた夜襲を決行することになったという。 納富但島守に2千の兵を授け、ひそかに嘉瀬川を渡って下於保村に待機させ、御大将龍造寺隆信の千余騎は西高木に陣取った。信昌(直茂)は19日の酉刻(午後6時過ぎ)に城から西を指して馬を走らせていた。従う者は秀島淡路、成松刑部、倉町大隅、同近江、諸岡尾張、納富越中、石井伊豫、安住安藝、円城寺美濃らの勇士17騎で、今山夜襲の快報はたちまち各地に伝わって、城下、道祖元町の百武志摩守賢兼の手勢十余騎が加わり、鍋島村では成富甲斐守信種(茂安の父)、伊東兵部少輔家秀らが合流して、早くも二百余人となり、名も縁起のよい勝楽寺で、旗竿の竹を切って幸先を祝い、藤折村(三日月町藤織)では早手回しに信昌(直茂)から知らせてあった芦刈村の鴨打陸奥守胤忠の一隊、小城の今川から馳せ参じ、今山に着いた時には総勢七百余人に達した。中腹に深いがけがあるのを信昌(直茂)が真先に槍を突き立てて飛び越え、次々に向う岸に駈け上って8月20日夜明け前、どっとばかりに本陣に切込むと、不意を打たれて敵は敗亡、しかも宵のうちの大酒宴で酔眼もうろうとして、足元も定まらず、大将親貞の旗下も備えを立て直す暇もなく、押合いへし合い東へ東へとなだれて行く。立ち直った者も意気全く振わず、大将親貞はさすがに踏止って奮戦したが力及ばず、血路を開いて主従わずか4人で裏道伝いに遁れるところを成松信勝らが待ち伏せ、6人が同時に掛って討ち取り首級をあげた。 時に信昌(直茂)、親貞共に同年の33歳であった。 親貞が酒盛りをしていた場所は現在「酒盛り塚」として伝えられ、船塚古墳の東、新堤の西北を上る道路に接したなだらかな丘というから今の赤坂登り口、柑橘園一帯であろう。本陣斬り込みの合図に法螺貝や吊鐘を鳴らしたようで、これを合図に下於保に陣していた納富勢も鬨の声をあげて攻め入った。男女神社上段の鐘掛松も今は枯れて跡かたもない。信昌(直茂)は今山の敵をことごとく追い散らしたあと、龍造寺側の軍勢千余が豊後勢を攻め立てたので大友勢は東西南北に敗走し、田にすべり川に落ちて太刀を合わす者など1人もいなかったという。(「成松戦功略記」「肥陽軍記」「九州治乱記」による。)