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[物語・いわれ][物語・四方山話][嘉瀬校区]は7件登録されています。
物語・いわれ 物語・四方山話 嘉瀬校区
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「八龍さんを訪ねて」
八龍さんは、鍋島の岸川部落にあって創始は、1500〜1600年前に建立されている。現在の八龍さんは、何回目かの建て替えされたもの。有明海の干潟が陸地化に進んでいる時、嘉瀬川の増水した乱流は、堤防もなかったので、住家・家畜・田畑・家族までも流失し、住人は恐怖の的だった。 八龍さんの龍の字は、川の流れのことで、乱流は、水の神が怒っているとした。怒りを鎮めるため社を造り、お供物をした。この八龍さんは、自然造成の佐賀平野にとっては、一番始めに建てられた神社である。社の入り口には、山門や継目なしの石の鳥居、本殿前の左側だけに彫刻なしの岩石だけの狛犬さん。裏手には、昔の建物に使われた大きな紋入りの鬼瓦が三個あった。 境内には、歩道や駐車場また花畑と、ふれあい公園化の工事中だった。側の川で、オタマジャクシの群を見つけ心を洗われた。
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「鬼門と樹門」
住んでる屋敷や家屋に、住んでる人を中心に、北東の隅を表鬼門、南西の隅を裏鬼門と名付けて特別扱いしていた時もあった。昔の家では、冬の北東の季節風は、寒さを家の中に吹き込み、北東にある部屋は、他の部屋よりも寒い。もし、便所でもあれば、お尻まで冷えきっていた。少しでも寒さ防ぎに屋敷の北東の隅に「樹」を植えた。夏の西日は、特に気温が上るので、壁で暑さをしのいだ。もし家の南西に便所でもあれば、ウジ虫は異状繁殖し処置に困る状態だったろう。少しの日陰でもと、「樹」を植えた。北東の隅と、南西の隅に植えた「樹」がいつしか「鬼」となっている。ローソクやランプの世代は去って、家の中は冷暖房に浄化槽の時代になった。エレベーター付きのビルやマンション住いの人は勿論、「鬼門」の言葉は、昔物語りになりかけ一部の人のものになって来た。
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「畑の隅の中央さん」
畑の隅や、屋敷の隅に「中央さん」を祭ってあるのを時々見かける。時には「中王さん」とも書いてある。 「中央さん」……年古の大工さんの話 昔、家を建てる時、土台柱の場所に、石を置いて目印をつけた。それが「中央さん」。土台柱は、家屋全体の要でもある。この中心となる地に建った柱は、梁の中心にもなり一段と基礎固めが必要であった。近所の人達が「石ぼっ突き」に加勢に来て、簡易やぐらの綱を引っ張り、歌に合わせて「石ぼっ突き」をしたもんだ。その基礎がための上に建った柱に、「荒神さん」を祭ったもんだ。「荒神さん柱」の近くに竃(かまど)を造り、藁を燃した煙は、白蟻駆除になっていた。 家も建ってしまった後の「中央さん」は、屋敷の隅の畑などに置き、お花など供え、建てた家の安全を、その後も、「中央さん」に願っている人もいる。
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部落は一家族
野田地区は、お寺を入れて九軒の集まりである。親たちの年齢、子供たちの年齢、世情も同じ位で、特別に目立った家はない。 部落内に店がなく、荻野の蒲原店や徳万町まで買い物に行かねばならぬ。醤油のなか、ソースのなか、あーら米の撫でたのがなか、塩のたらん、お金のなかと、日常生活で不自由なことがあっても、走って隣の家に走り込めば、十分たりた。子供は、遊び先で食事の時間になれば、「おふん舞い、うけんね」。遠慮なくお世話になった。お彼岸が近づくと、おはぎ、ぼたもち、皆んなの家に配り、日を変えて、家にも配って貰った。配るのは楽しみだった。「あんたがきたね」と、小遣賃を貰った。「ただいま」 と学校から帰ったら、一番先に見るのは、仏さん棚である。何んか配ってきていないかな。あるある仏さん棚に。すぐ何だろうと見に行く、早う食べたいと、うきうきしていた。野田は、よかとこ。
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野田の戦時中の一風景
桑の木を移植し、野田にある畠は、どこでも桑畑になった。嘉瀬川の川中や川外の畑も桑の木だらけ。命令でもきたんだろうか。桑の葉を蚕さんに食べさせ、繭になし、それを紡いで生糸になし、供出していた。各家の庭中にも、家で寝る部屋以外は天井まで棚造りし、竹の大きなザルに入れ蚕飼いに追われていた。野田のお寺はじめ、どこの家に行っても、ガスガス桑の葉を食べる蚕さんの音、用事が話されん位厭な音だった。蚕さんが繭になったら、熱湯につけて、糸をつむぎ、より入れが始まる。手車回しはバアチャンの仕事だった。生糸ができ上がる様子は、不思議で珍しくもあった。桑の葉の毛虫は、大嫌いで加勢にならず、桑の実の赤いのは、学校に持って行った。熟した桑の実は、衣類や口の中の舌まで紫色に染めてとれんやった。バアチャンが生糸で反物つくり、一着和服を作ってくれた。
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昭和二十八年の大水害
戦後の立ち直りに、皆が努力し始めた昭和二十八年の夏、台風による大被害、家も家具も農具も流され濁流となる。『二十八水』と呼ぶ。大体、嘉瀬川は、川底が田んぼより高く、それに堤防の東と西に強さに加減があった。二十八水の折は、両方の堤防から水濡れが始まり、危険状態になる。突然、西の堤防から『バンザイ、バンザイ』。東の堤防が崩壊したのだ。鍋島の桜の堤防。濁流は、一瞬にして家々を呑み込んでしまった。畳の上に慎重に三俵重ねたが、増水のためひっくり返った。隣ではタンスがバタバタ倒れる。家具は家の外にどんどん流れて行く。屋根まで濁水に浸され、屋根裏に家族は寝るのに精いっぱいだった。42日間の水びたしは家を壊してしまい、その冬寒い年だった。嫁にきた家内は、大水にびっくりしていた。新町の堤防は閉ざされたままだったので水は減らず、食事は船でおにぎり、漬物を運んで貰い命は保った。
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野田の河童
野田あたりの河童は、夕暮れ時に堀の側の道端に、ニョキョッと立っている。手足は水かき、背中は甲羅、頭の上に皿がある。この皿が濡れている時は、神道力を出して、歩いている馬でも堀の中に引っ張り込んでしまう。河童は、人間の子供が好きで、お尻から手を入れてお腹の中を食べてしまう。堀の岸に、子供は一人で行かんこと。河童をはっきり見たもんは、まあだ誰もおらん。雨が降って、堀岸の滑る時、河童の皿もいっぱい濡れている。堀の岸の方に河童はちゃんと来て、水の中に隠れている。『助けてー』と大声出したら、河童はびっくりして逃げて行く。一人で堀の所に、近寄らんことが一番よか。野田の河童は、よう、あっちこっち遊びに行くけん、どこの堀でん、注意せんば。