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[物語・いわれ][物語・四方山話][諸富町]は3件登録されています。
物語・いわれ 物語・四方山話 諸富町
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旧制中学商船学校の少年ボート競漕
筑後川右岸河口の少し上流に佐野常民記念館がある。ここは大正から昭和初期まで佐賀県立商船学校があった。毎年5月27日旧海軍記念日の行事として、新北・中川副・南川副・西川副・大詫間村の小学校対抗ボート競漕が行われた。各校が小学高等科の体格の良いのを選んで1部、2部を編成して競った。選手は手のひらにいっぱい豆を作ってヨーチンを塗って練習に励んだ。当日は母校の名誉を懸けた選手の乗った5隻のボートが下流に向って、それぞれのコースの水上に並んで号砲を待つ。ボートは海軍の払い下げではなかったろうか、大きかった。8人か10人で漕いだと思う。距離ははっきり覚えていないが500m往復の1,000km競漕だったと記憶している。応援合戦も賑やかだった。先生に引率された5年・6年・高等科の生徒が右岸には新北・中川副・南川副・西川副、対岸には大詫間小学校生徒が各校の応援歌を高唱して応援合戦を繰り返し選手を励ました。号砲一発5隻のボートは一斉に流れに乗って漕ぎ出す。川はコースによって流れが違うので流れの速いコースは往路は目を見張る程早いが帰りは流れに逆らって漕ぐので往路で遅れた組に追い上げられ応援も必死に声援を送り大変な盛観であった。しかし商船学校の廃校によってこの勇壮な行事も自然消滅したのには少なからず郷愁を禁じ得ない。 新北小学校の応援歌の一節を紹介します。 「千歳川原の健男児 一粒選りの猛選手 日頃鍛えし鉄腕の 冴えるも嬉し今日の空 高鳴る血潮躍る肉 必勝期せし我が選手 勝ーて勝ーて勝て勝て 勝ーて勝ーて勝て勝て 勝ーて勝ーて勝って勝って勝って帰れ 奮え新北奮え新北(フレーニキタフレーニキタ) 奮え奮え奮え(フレーフレーフレー)」 時代が過ぎて商船学校があった事も、各校の少年が血を沸かせた華麗で勇壮なボート競漕があっていた事も現在知る人は極めて少ないと思います。 (少年時代の記憶)
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徐福渡来
佐賀県立博物館に畳1畳ほどの「金立神社縁起図」が保管されている。「徐福渡海縁起図」とも呼ばれ、下段に船4隻に乗った徐福一行が浮盃江に上陸しようとする様子が鮮やかに描かれている。 約2,200年前、中国統一の偉業をなしとげた秦の始皇帝は栄華の日々を送っていたが、自分が年をとることと死に近づくことは如何ともしがたくこの不安から逃れようといろいろな手立てを考えさせた。 古来より中国には不老不死を願う神仙思想があり深山の奥に住む仙人が不老不死の霊薬を作っているという伝えがあり、始皇帝は神仙の術を行う方士と呼ばれる者にこの霊薬を探すように命じた。 方士の一人である徐福が「東海に蓬萊島あり、島上に仙山あり、山上に仙草あり、食すれば不老不死を得る」と進言した。そこで徐福は金銀珠玉に飾りたてた船20艘に少年少女や供の者数百人を乗せて蓬萊の島をめざして旅立った。 徐福一行がまず着いたのは杵島の竜王崎(杵島郡白石町)であったが上陸に適さなかったので、徐福は大きな盃を海に浮かべ流れつくところから上陸することにした。盃は流れ流れて筑後川下流の搦に辿りついた。浮かべた盃が流れついたところから、この浜を浮盃というようになった。 上陸しようとしたとき、暴風雨となり船が転覆しそうになったが、アミが船の間にびっしりとつまって転覆をまぬがれたため搦の人々はその後、アミをとらなくなったという。 徐福は生い茂るアシの葉を手でかき払って上陸したので、葉が片側だけにつく片葉のアシになってしまった。 一行は上陸すると手水を使うために井戸を掘り、その井戸水で手を洗ったので手洗いの井、その音が訛って、てらい(寺井)の地名になったという(昭和2年、園田秀次氏宅の床下から発見された井戸を徐福の掘った井戸と伝える)。 徐福たちは、搦に滞在していたが網につける柿の渋の臭いにがまんできなくなり、また、不老不死の薬も早く探さなければならないので、蓬萊山に似ているという佐賀平野の北方にそびえる金立山めざして旅立った。
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弘法大師とエツ
日本では筑後川河口だけにしか住まないというエツ(斉魚・刀魚・銀刀魚などと充てる)は、カタクチイワシ科の魚で体長30〜40cmほどで身は薄く銀色の細かなウロコにおおわれた表面は透き通るように鮮かである。 4月下旬頃、川をさかのぼってきて6月から8月にかけて下流の水域で産卵する。諸富橋の上流から下流数キロメートルにかけてサシ網で獲る。 料理法は刺し身・あらい・煮物・塩焼き・あらだき・てんぷら・南蛮漬け・酢のものなどで、小骨が多いので裏表に200回以上の包丁を入れる。 アシの葉を思わせるこの魚には叙情的な伝説がある。 約1,400年前、初夏の激しい雨の日、筑後川の河口に一人の旅の僧がズブ濡れになって佇んでいた。見れば身なりは貧しくお金も持たない様子である。向こう岸へ渡ろうとしたが誰も相手にしてくれなかった。見かねた近くの老漁師が自分の舟で渡してくれた。この老人の親切に感謝した旅の僧は、お礼に「魚のとれないときは、この魚をとりなさい」と岸辺のアシの葉をとって川に流した。アシの葉は魚に姿を変え群れをなして泳いでいった。この貧しい旅の僧は九州を行脚していた弘法大師だったという。 また、徐福が上陸するときに押しわけてできた片葉のアシの落ちた部分がエツになったとも伝える。