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[人物][人物][巨勢校区]は7件登録されています。
人物 人物 巨勢校区
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真崎照郷(てるさと) 藍綬褒章に輝く発明王
製麺機の発明で知られる真崎照郷(てるさと)は、天才的発明家で立志伝中の人であるが、その血のにじむような努力と苦労は世にあまり知られていない。嘉永5年(1852)12月12日、巨勢町高尾に生まれた。家は代々酒造業で、父は手腕家で世の信望も厚かったが安政3年35歳で亡くなった。この時、彼は6歳。父は「世を益し名を挙げよ」と遺訓したという。父の死後、賢婦人で家業の切り盛りを一人で行なう母親の手で養育されたが、母は「立派に家名を挙げ先祖にむくいよ」と戒めていた。彼は少年時代、政治家になるより、自分は世に生きる道は他にあるのだと考えていたという。 少年の頃、彼の心を強く刺激したのは、蒸気機関の発明者ジェームス・ワットの話であった。ワットの生命が蒸気機関の上に永久に生き、人類のために多大の貢献をしていることを考えた彼は、自分も前人未踏の発明界に身を投じ、世のために尽くしたいと決意した。こうして、最初の発明は、青年時代、軍籍時代の測量の体験から生まれた測量器真崎円度の発明で、明治7年24歳の時であった。 彼は、助手と共に測量のため田園を奔走していた時、麦畑の麦に気をとめた。麦の実は安いが麦粉からの素麺はその4倍の値になる。そこで、神埼などの手延素麺のような手間がかかり、熟練者でなければ市場価値として製品化できない状態ではなく、機械製麺にしたらどうだろうかと思いつき、明治9年26歳の頃から、製麺機の考案にとり組むことにした。こうして、研究、試作、失敗と製麺機の発明のための狂人的な生活が始まった。家業は使用人に任せ、酒造場は失敗した試作品の山と化した。知人、親類は、無謀な計画を止め、家業に専念するように説いたが聞き入れず、ついに、家業はおとろえ、発明研究のために、先祖代々の資産、田畑も手放し、悲惨な境遇におちいった。そして苦労を重ね、第7回目の試作の後、明治16年春、製麺機と製麺法の発明が完成し、機械製麺という前人未踏の新天地が開拓された。明治9年研究を志して以来、8年間の苦心難行を越えた努力の結果であった。この後は、特許権の獲得に苦労をしたが、明治21年3月、麺類製造機械という名称で、最初の特許権を得た。この後、大正10年までの間、29種の製麺機関係の特許を獲得した。さらに博覧会などでの受賞は64回にも及んだ。日清戦争後、にわかに需要が高まり、業務拡張、職工増員をし、さらに大阪に分工場を設けた。36年、大阪での内国勧業博覧会で1等賞を得たばかりでなく、明治天皇・皇后陛下が製麺機を御高覧なさる栄誉を得た。日露戦争後はますます販路も拡大し、明治40年、藍綬褒章が下賜された。さらに、明治44年肥筑で陸軍大演習が行われたとき、行幸された天皇は、彼を久留米大本営に召され工業功労者として拝謁された。また、米田侍従が工場を訪問され、彼及び従業員一同にご訓告と励ましを述べられるという栄誉がなされた。真崎鉄工場は製麺機のほかに、電気を利用する機械が将来性があると察知した彼の計画で、電動機、変圧機、電気開閉機、鉱山機械にも分野をひろげ、その需要に対応して日本電気鉄工株式会社を大正7年に設立した。この会社は、電力機械灌漑を創案し、クリーク地帯の農業に多大の貢献をしたことで有名である。また、昭和初めの恐慌で、電気開閉器の部門を戸上電機製作所が継承することになる。彼は発明事業ばかりではなく、郷土の村治に大きな力を尽くした。明治23年から大正11年まで、村長、村会議員、学務委員などをつとめた。とくに、大正6年67歳のとき、八田江改修を提案しその基礎を作った。大正11年には、村より第1回名誉職表彰状を授与された。さらに、大正15年大正天皇から発明奨励金が下賜され、帝国発明協会から恩賜記念賞ならびに大賞が下付された。この年12月、県知事ほか多数の知人、村人の手で真崎照郷翁表旌記念碑が巨勢神社境内に建立された(※)。そして昭和2年3月9日、77歳で病没した。真崎照郷翁は、郷土巨勢がもっとも誇る大偉人である。 ※記念碑は現在巨勢神社東の川岸にあり。
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真崎仁六 日本鉛筆工業の創始者
鉛筆工業の創始者・真崎仁六は、嘉永元年1月13日(1848)巨勢村高尾に生まれた。18歳の時、維新の風雲に遭い、長崎留学で英語を学んだ後、東京に出て郷党の先輩大隈重信が後援する日本最初の貿易商である日本起立商工会社に勤務し、金属工場の技師長として明治9年のフィラデルフィア博覧会に、翌10年パリ万国博覧会に製品出品のため渡欧した。 この博覧会場で美しく陳列された種々の鉛筆を眼にした真崎は、その実用性に驚くと共に、日本での製造を固く心に誓った。帰朝後、多忙な勤務の余暇に研究と試作をくり返し、5年後、目的の芯を作りあげた。さらに、軸木材の研究、工業化するための機械の設計に苦心を重ね、明治20年成算を得て職を辞し、真崎鉛筆製造所を設立し、本邦初の鉛筆工業が誕生した。製造法研究、工場経営、販路の開拓など苦心を重ね、明治36年「三菱」の商標を登録した。明治40年東京博覧会2等賞銀牌、43年ロンドン日英大博覧会1等賞金牌、大正3年御即位記念博覧会1等賞金牌を授与された。創造する心、不屈の精神の持ち主の氏を先輩に持つことは、町民一同の誇りである。
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秋山虎六 海軍少将、戦没者鎮魂碑文揮毫
秋山虎六海軍少将は巨勢町東分上の出身で、父勘助と母コマの末子として生まれた。幼年の頃から両親の厳しいしつけのもとに教育された。勉強好きで、特に読書に余念がなく、多人数で騒がしい自分の家を抜け出して近所の空家で学習に励む熱心さであったという。 佐賀中学時代は常に成績優秀であり、近所の子ども達を集めて学習指導に当る努力家であった。佐賀中学より海軍兵学校に進み、心身共にたくましい青年に成長し、特に第1次世界大戦では、陸戦隊長として軍艦の大砲を引き揚げて指揮し、ドイツの租借地である青島で攻戦して活躍したことは有名である。やがて海軍少将となり、墓参帰郷の彼の威容は素晴らしく、故郷の人々を圧巻した。また、巨勢小学校を訪問しては、児童たちに常に勉学の尊さと規律ある人間性を訓示として強調され、当時の校長山田秀作氏と懇談されている姿を一目見ようと児童達が職員室に押しかける有様であったという。帰郷の折は必ず佐賀弁で土地の人々を親身に励まされ、彼の故郷に対する畏敬の念は賞讃された。巨勢神社の戦没者鎮魂碑の書は、彼の筆になっている。
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真崎誠 乃木大将とともに学習院で皇太子教育
真崎誠は明治7年8月18日(1874)巨勢町下新村で、父真崎利平と母ツネの長男として生まれた。幼年の頃から秀でた知恵の持ち主で、大人を圧倒することも度々であったという。勉強好きで、佐賀中学校より第五高等学校に進み、さらに東京帝国大学の政治科と国史科を専修したが、常に成績優秀であり、特に大学時代には旧佐賀藩主鍋島家の奨学資金を授かった。明治32年には東京帝国大学大学院研究科を修了して、内閣総理大臣秘書官室及び内閣書記官室の勤務に就き、一方教育者として、当時の日比谷中学校、麻布中学校で教鞭を執った。明治35年には学習院大学の教授となり、学長乃木希典の指導のもとに教育活動に専念した。明治43年より45年まで、歴史地理学の研究と各国の教育制度調査を兼ねてフランスに留学し、ロシア及びヨーロッパの全諸国を見聞するとともに、アメリカ合衆国にも渡って視察を重ねた。帰国後は留学の成果を発揮して教育界で活躍し、大正2年の三重県師範学校長をふりだしに群馬県師範学校長、山口県師範学校長を歴任した。昭和3年にはその業績にもとづき勲四等瑞宝章を授かった。
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水町義夫 詩人・第4代西南学院長
水町義夫は明治18年(1885)2月16日巨勢村修理田に生まれた。明治45年に東京帝国大学文科を卒業して佐賀の成美高等女学校の教師となり、その後も、福岡の東筑中学校・中学西南学院・西南学院高等部で教鞭を執った。 学生時代、佐賀において、日本基督教会宣教師のピタズ氏より洗礼を受け、さらに北九州市若松で伝導していた尾崎源六牧師の指導のもとに、彼は熱心な基督教徒となり、その布教にも寄与した。 昭和2年9月より1年間、米国ケンタッキー州ルイビル大学に留学して英文学研究に専念した。特に英詩の研究をテーマとし、詩人としても活躍し、西南学院校歌は彼の作詞である。校歌には島崎藤村のロマンティックな精神と新約聖書の思想が強く歌われている。帰国後、彼は再び教育界に入り子弟の教育活動に全力を注ぎ、特に昭和8年より23年の長い期間にわたり西南学院長を務めたことは有名である。戦前、戦中における状況下で、基督教主義私学という困難を克服して、教育指導ならびに学校経営を守り抜いた彼の業績は高く評価され、昭和40年に勲三等瑞宝章を授かった。
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小森ナカ 日本婦人の鑑
嘉永元年(1848)3月11日、小森ナカは大字牛島5番地に生まれた。父は喜助、母はセツという。男子が誕生しなかったので、藤津郡吉田村の農業・宮崎慶次郎の二男清七をナカの夫として養子に迎えた。一家は小作農で生活は貧しかった。夫婦の間には1男4女ができ、和気に満ちて家運もよくなると思われたが、ナカが29歳のとき、不幸が襲いかかってきた。夫の清七が明治10年6月に病死、続いて父喜助も翌11年に、持病の喘息で長く病床についた。一家8人の生活が、ナカの肩にかかってきた。 ナカは心を強くして勤労に励み、農業の合間に、神社などの祭りに出かけ菓子・果物を商い、農閑期には縄をない、子どもの世話もよくみた。さらに、病床の老父の看護を精魂をこめて尽くした。しかし、明治17年父は病死した。その間7か年、孝養をつくし婦道を発揚したとして、明治17年3月佐賀県令鎌田景弼から表彰され、金1円が下賜された。 その後は、老母の孝養につとめ、娘たちを見事に育てあげ嫁がせた。母は、明治40年に亡くなった。小森ナカは、模範的な婦人像として、郷土に不滅の光をなげかけている。
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山崎クリ 孝女・母娘とも薄資善行賞受賞
クリは高尾宿の人で、温順な性格の持ち主であった。父は大正12年に亡くなり、母トラが日本電気鉄工株式会社の女工となって、家族6人を養うこととなった。一家の柱となり老父に仕え、子女の養育に力を注いだ。家は資産なく他からの援助もなく、貧困だった。そこで薄資善行者として金20円の後援資金が与えられた。しかし、大正14年4月、重病にかかり無料診療券により医療を受けることになった。このとき、本人クリは女工となり、勤勉に仕事に励み信望厚く、1日金1円の収入があった。15歳の少女の身で、一家の生計を立て、祖父と病母に仕えた。 大正14年申請された薄資善行者として金20円の資金が与えられた。一方、母の病気は重くなり、県立好生館に入院治療を受けたが、大正15年結核で亡くなった。その後クリは、ますます職務に励んだ。祖父清助は胃縮腎病にかかり北島医師の無料診料券で手厚い治療を受けたが、昭和4年に亡くなった。妹シカは長崎県埼土村に養子縁組をし、弟春次は唐人町植松薬店に奉公。本人と妹トウの二人暮しとなり、生計に苦労することはなくなった。山崎クリは、昭和4年12月、文部省から表彰された。