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[自然][河川・水路][蓮池校区]は4件登録されています。
自然 河川・水路 蓮池校区
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あらこ
「あらこ」は普通「荒籠」と書き、川岸に石を組んで、護岸、舟つき、流れの調整などを図る出っぱりである。筑後川などにも諸所にある。 佐賀江の記事にこれを「洗湖」と書いたのが栗山賚四郎氏にもあるが、これは佐賀江の特徴に合うと思われる。鍋島氏になってから成富兵庫によって作られたと古老たちにより言い伝えられている。 佐賀江は曲がりが多く、蒲田津橋から今宿まで直線距離5kmのところを、川は9.5km以上約2倍の長さになっているのは、有明海の干満の力をよく利用して水を蛇行させることで、保水と舟運の便を図ったものと思われる。この江湖はほとんど高低のない平地を、横に走るが、満ち潮に乗って櫓で今宿まで行き、荷をさばいて引き潮で下る事がで出来るように手を加えたと言われる。 小田氏時代は、この川は龍造寺に備える砦の意味が強く、鍋島になって交通交易を図ったようである。また、江湖の水はガタを含むので、沈澱のため川がせまくならないように、曲がりとあらこが江湖の特徴である。あらこの出っぱりとその上下の捨石の使いようにより、水をよく動かして深みを保ち、向う岸をも洗う働きが考えられている。 写真は蓮池町に現存するただ一つのあらこ。昭和初期までは荷揚が行われていた。藩政時代は乾鰯(ほしか)の荷揚げ場所として賑わった。佐賀江川沿いには数箇所のあらこがあったが現在では一つしか残っていない。
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城原川
部落西端を北南に貫流する城原川は、従来川幅が狭く毎年の雨期には、上流の堤防が決潰し大きな被害を出していたので、昭和28年より幅員を約3倍にする改修工事が始まり、昭和33年に完成した。 この川は昔は新宿橋下より乙南里〜姉〜境原を経て川崎の上流にて中地江に通じた留浪川が本流であった。その後新宿より下流は新しく掘られた新川である。従って以前は古賀・枈尾は陸続きで当時の水利関係は田手川並びに中地江が利用されていた。その後水上運送の利便灌漑等のため新川が開削されたと思われる。
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蓮池(蓮堀)
公園の池には蓮が一杯であった。夏の早朝、ポーンという大きな音をたてて蓮の花が開く。大きな葉の間の、うす紅の花の美しさは、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の冒頭の部分を思い出させた。また、水に映えた池畔の菖蒲の姿も忘れがたい。
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お水堀
水源は城原川お茶屋畑より引水してある。 下直鳥村ほか5村が姉村と水論を起こし、相応答あって1824年3月解決する。 神埼郡境原村の底樋の討議は1828年1月解決。この底樋は、郷内の6村の用水として用いる。城原川から引水した水は留浪川を通り、浜へ行き、見島のお水堀に溜まる。 このお水堀より中地川の底の下を潜って立体交差する水路がある。見島のお水堀の井ビから大橋へ。北名を西へ抜けてデンゼ橋の下からお祇園さんの太鼓橋をくぐり、神埼町の南を東進して、出張所の前の橋の下をなお東へ少し行き、南へ曲がって公園を抜け、先得亭で江湖へ出る。たいした迂回路だが、もと城原川の「お茶やの井樋」(直鳥)から引いた良質の水で、江湖に遠い家庭の多くが恩恵を受け、また農業用水として地区を潤した。 古老の話によれば、城原川の「よい水」を中流(現千代田直鳥)で採り、蓮池方面の上水として利用した昔の水路。藩主の用にも使ったため、特に大切にしていたが、当時は城原川、佐賀江(湖)の水もよく使っていた。混ざり物があるので、各家大がめに汲み込んで、いくらか澄ましながら使った。お水堀の水は、上流からの水が多いので上質だったと思われる。 (注)「祇」の左部分は「ネ」で表記される。