検索結果 RESULT
[建造物][地蔵・銅像・石塔][東与賀町]は6件登録されています。
建造物 地蔵・銅像・石塔 東与賀町
-
山の神
下飯盛の集落入口に、大神宮・庚申などの石祠にまじって「山神社」「山神」と刻んだ神祠が2基ある。建立年は不明であるが、1基に「地蔵十一世 元春代」の銘がある。元春は天明8年(1788)に地蔵院11世住職を継いでいる(鍋島文庫 曹洞宗由緒)。 平野部における山の神信仰は、山村に住む民の信仰する山の神と違い、農耕神としての信仰がある。春、農耕の始まりに山から里に下って田の神となり、稲の無事生育を見守り、秋の収穫が終われば山に帰って山の神になるという伝承である。 このような信仰を背景として建立されたものかどうか不明であるが平野部において「山の神」の石祠は珍らしい。
-
鳴神
中村の氏神社八幡宮境内に「鳴神さん」と呼ばれる石像物がある。鳴神とは雷神のことで、像形は連鼓を背負いバチを両手に持った鬼が雷雲に乗った姿で描かれている。 雷光をともない激しい雨とともに鳴りひびく雷は古くより恐れられていた。雷のもたらす雨は稲の生育にかかせないもので、雷光をイナズマ(稲妻)・イナビカリ(稲光)というように稲に豊饒をもたらす信仰があった。 一方、落雷による被害も恐れられ、その基底には悪霊思想がうかがえた。このように鳴神には崇敬される神と駆逐さるべき神としての二面性がみられる。
-
読誦塔
特定の経典を一定回数読誦した記念に建てたものに読誦塔がある。すなわち経典を何部または何遍読誦したかを銘文に示したもので、一千部あるいは五千部などと刻まれている。 対象となる経典はいろいろあるが、東与賀で見られるのは「大乗妙典」つまり法華経を読誦したもので江戸期に建立されたものが多い。
-
念仏塔
浄土教では「南無阿弥陀仏」の名号を唱えることによって、誰でも極楽往生ができると説かれ、浄土教系の浄土宗・浄土真宗・時宗といった教団を通じて広まった。 大野一区に、阿弥陀如来の坐像と6字の名号を彫った寛文6年(1666)の念仏塔がある。 また、念仏を数多く唱えれば、それだけ多くの功徳が得られるという思想により百万遍念仏、二百万遍念仏が行われるようになった。その行法は2種ある。一つは一人が日を限って念仏を百万回唱える形であり、他の一つは大念珠を念仏講中の人びとが車座になって繰り回し、1顆ごとに念仏を唱え、全員の念仏の総計が百万回となったときを完了とした。近世以降は後者の形で、所定数に達したとき、その完了を記念して百万遍念仏供養塔が造立された。 上町若宮社境内に「奉唱念彿二百萬遍為菩提」(造立年不明)の念仏供養塔がある。 また、鍛冶屋天満宮境内に正徳元年(1711)の念仏塔がある。
-
屋敷神
屋敷地の一隅に祀られている神がある。稲荷・恵比須・中央・水神などまちまちであるが、旧家には中央神を祀っているところが多い。駒型・角柱型の石の中央に「中央」「中央尊」と刻んだもので俗に「チュウオウサン」と呼ばれており、艮(北東)または戌亥(北西)隅に祀られている。その取扱いは丁重でも粗末でも良くないとされ、正月や盆に花や餅を供えるぐらいであまりかまわなかった。 中央神の性格は明らかでないが、屋敷を守護する土地神の性格が強く屋敷地に悪霊のよりつくのを防ぐのであろう。 一説には、肥前盲僧が広めたもので地神陀物羅尼王子経に説くところの荒神が大地の中央にあって四季の土用をつかさどるという思想に基づくものと言われている。
-
いぼ地蔵さん
この村の東端にある三界万霊の地蔵堂は、安永4年(1775)10月吉日の建立で以前は町道の東部へ突き当たりの堀岸にあったが、現在地に移転改造築になったのである。お地蔵さんの眉の間に大きい「いぼ」があるので「いぼ地蔵さん」の愛称がある。このお地蔵さんは子ども授けの神として尊敬され、お詣りして子宝を恵まれた実例も多いと聞く。それでこの近隣だけでなく他の町村よりも遠くは小城の三日月からも参詣者があるとのこと。現在地は春秋の彼岸にこの地区婦人会でお祭りをする外に、毎年10月15日のお供日がある。この日に赤飯を炊いて魚と神酒を供えてお詣りすると、見事な男の子が授かるという。霊験あらたかに有り難い「いぼ地蔵さん」である。