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[建造物][地蔵・銅像・石塔][開成校区]は9件登録されています。
建造物 地蔵・銅像・石塔 開成校区
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日子神社の大神宮塔
日子神社境内の北側に2塔設置してある。2塔共に「天照皇大神宮」の銘が刻まれている。 東側の塔は、建立年代は、「元禄」の文字しか読み取れない。年代は、1600年代に建てられ、下の部分に、施主15名の氏名が刻まれているが、土中に埋まり読み取ることが難しい。 西側の塔は、さらに年代が古く、天照皇大神宮の銘がやっと読み取れる程で、施主名も10数名刻まれているが風化して読めない。 県内では、伊勢皇大神宮を信仰する伊勢講が盛んに催されるようになり、講仲間では、資金を積み立て講金を路銀にあて、講仲間の数だけ神札を受け、帰村して配付した。また、路傍の田で新しい稲の品種を見かけたら持ち主から種籾をもらい受け、上方の文化と共に全国に普及していった。 境内にある大神宮塔は、代表で参詣に行った記念塔として建立したものである。 伊勢詣りは別名「おかげ詣り」と呼ばれ、60年毎に爆発的に流行した。これは、当時の封建政治に抑圧された庶民の対抗的な集団行為ともとらえられた。
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お地蔵さん(地蔵尊)
旧新村の地蔵尊の由来は定かではないが、元禄年間(1688〜1704)、中御門天皇の享保12年(1727年)に、この地の先住人達が佐賀の城下町に通じる道端に、家族の無病息災を願って、地蔵尊を建立し、祀ったのが起因と考えられる。 その後、明治12年に当地の住民の善意でお堂が建立され、明治25年2月に弘法太師像が合祀され、その時に天井絵馬が奉納された。 それ以来、佐賀、新四国13番札所として、春秋の彼岸には百数十人の善男善女のお遍路さんの巡礼があり誠に大盛況であった。 その後、お堂の痛みも激しく、天井絵馬も剥げ落ち老朽化したので、昭和42年5月に地区住民の善意により改築がなされた。平成9年3月、佐賀市都市計画道路建設の為、前場所より150m南の旧新村公民館跡地に移転新築され、前回の改築の時に天井絵馬は廃止されていたが、今回は明治の建立に習い、住民の善意の寄進により天井絵馬が復元された。 当地蔵尊は、由来記に述べられているとおり、藩政時代の昔から、村、内外をとわず一般の信者の参拝も多く何時も花や線香の絶えた事がなかった。夏祭り(ぎおん)は、旧暦の6月24日に町内の高等科の生徒(現中学1,2年)主催で権現さんと同じ要領で行われていた。 村内の婦人達や太子講の方々の善意でお遍路さんの御接待が行われていたが、現在は老人会や奉賛会の方々等の協賛で、お彼岸の日に本願院の和尚さんを迎え、家内安全と無病息災を祈願して盛大な法要が行われている。
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お観音さん(馬頭観音)
お観音さんは、お地蔵さんのお遍路道にあり、お地蔵さんと向き合ってお祀りされている。本尊は馬頭観音で、創建は記録が無く、定かではないが、お地蔵さんと同じ頃に新村の創始者達が農耕に大事な農耕馬の安全と共に家内安全を祈った。お遍路さんの巡礼が訪れたときは、婦人の方でお遍路さんの接待が行われていたが、今はなくなってしまった。
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お弁財さん
お弁財さんは通称弁ジャーさんの名称で親しまれ、沖田地区の東に祀られている。 創建は特に記録はなく、定かでないが、他のお宮と同じ時期に同じ様な趣旨で祀られたものと思われる。 12月15日に権現さんの村祭りの日の夜に、旧新村の全部の戸主を迎え、弁ジャーさん祭りが祭田の収益金で盛大に行われていたが、祭田が住宅供給公社の建設区域内に在ったことから、売却することになり、祭田の売却後は弁ジャーさん祭はなくなった。 夏祭り(祗園)は旧暦の6月27日に夏祭りの最後を飾り、青年団主催で行われた。当日は芝居の舞台が作られて、浪花節や田舎狂言など2晩続けて行われ、地区内から沢山のお花があった。今は故人になられた先輩の青年団員のお戯けたお花のご披露等、懐かしく思い出される。昔は何も娯楽の無い時代で、今思えば、懐かしく思い出される。
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八戸溝の中央尊
中央さんの信仰は、肥前の盲法師が広めたものといわれ、地神陀羅尼王子経の経典で説くところの荒神が大地の中央にあって、四季の土用をつかさどるという思想に基づくものと言われている。中央さんの石祀は、屋敷神として民家の敷地の乾(いぬい)の方、つまり北西か北東(うしとら)の隅に祀られている。 銘文は、中央社、中央、中央尊などがある.
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八戸溝の馬頭観世音
昭和15年10月1日現在の調査では、八戸溝の世帯数は66戸、人口324人で、ほとんど農家であった。馬は家族の一員で農耕用馬、競走馬などで、大切に飼われていた。馬の安全を祈り、農耕馬の守り神として路傍などに祀られた。また、馬が死ぬと供養のために個人の手によって宅地内に祀られていた。 また、馬頭明王とも言われ、仏が怒りの姿で人々を救い上げるということで、恐ろしい形相の姿が多い。江戸時代中期以降から民間信仰が厚くなったとも言われる。 森氏宅馬頭観世音 (銘文)馬頭觀世音 建立 明治十九年戌七月吉日 建立者 不明
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八戸溝の庚申神塔
石水寺禅寺の山門の南で参道路傍に2塔並んでいる。庚申神とは、「かのえさる」道教と仏教の青面金剛、帝釈天の信仰とが混合したもので、庚申(かのえのさる)の夜、一晩眠らずに神を祀る庚申会(講)があり、この庚申講信者仲間で建てられたものと思われる。銘文だけがやっとわかり、氏名などは風化して読取れないほど年代は古い。 また、講と信仰の結びつきは古く、二十三夜講、二十六夜講(普通、三夜待講、六夜待講)、庚申講、伊勢講、念仏講など盛んに行われた。そして、近世末期から明治、大正にかけて建立した石塔が各地に多く残っている。
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六地蔵
奉彫刻地蔵菩薩6体(総高約1.5m)は、 江頭山長寿庵南入り口に設置されている。 ○湖光妙○禅定尼 萬治二巳亥歳(1659) 十一月廿八日 同じ南入り口には石塔1基(総高約1.0m)もある。 岡丸霊神 延宝三年(1675) 十月十八日 また、北入り口には、奉彫刻地蔵菩薩6体(総高約2.1m)が設置されている。 なお、地蔵菩薩は宝珠・笠・仏体(6体)・中台・竿の5部からなっている。北・南入り口の菩薩6体は、共に笠は平面が六角形で、波形の勾配、仏体は立像で蓮台上に立っている。 しかし、どれも造立銘が判然としない。
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石造地蔵菩薩
地蔵菩薩の正面下に「三界萬霊」と、横に「明治六巳丑年四月吉日」刻まれている。 地蔵菩薩は童顔で、帽子を嫌い子どもを守る菩薩と言われている。 同じ地蔵が、八戸溝・角目・東新庄に各1基あったとのことで、このことは佐賀城敷地の計画の1つだったという逸話が残っている。 毎年7月24日には、隣組の子どもと母親が古賀氏宅に菓子等を持ち寄り食事をしながら、歌や踊りを楽しむ祭りを行っていたが、現在は休止中である。