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[建造物][地蔵・銅像・石塔][西与賀校区]は21件登録されています。
建造物 地蔵・銅像・石塔 西与賀校区
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弁財天
弁財天はインド地方の河神として尊崇され、のちに仏教に採り入れられて金光明最勝王経に説かれている。元来は農業神であったが、音楽や智慧の神に転じ、さらに鎌倉時代以降は福徳神の性格が強くなり、七福神の一員に加えられている。 弁財天の石仏造立の目的は、池、沼、川などの水辺に祠られる水神として祠られていた。古代から信仰の対象となっている脊振山、金立山、天山などの神山には、弁財天が奉祀されている。これはおそらく農業用水の供給としての水神信仰が古くから存在していたものと考えられる。
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地神
佐賀市を中心として、「中央」「中央尊」などと記された塔が分布していて、一般にチュウオウサンと呼ばれている。この中央尊は、民家に祀られた屋敷神であって、乾(いぬい・北西)か艮(うしとら・北東)の隅に安置されるのが通例であったといわれる。この中央尊の信仰は、肥前地方にもかつて強力な地盤を築いていた玄清流盲僧が広めたものといわれ、地神陀羅尼王子経で説く荒神が大地の中央にあって、四季の土用を司るという思想に基づくものであるといわれている。
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大黒天
大黒天は仏教にとり入れられ、インドや中国では古くから寺院の守護神とされ、また、豊饒を司る神であった。 わが国でもはじめは護法善神として食堂に祀られていたが、大国主神との習合も見られ、江戸時代に入ると恵比須と共に福神の代表的な存在となった。
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八天狗
八天狗は、愛宕山、比良山、大山、大峰山、鞍馬山、飯綱山、彦山、白峰山の八山に住むという天狗で、修験との関係が深い。 天狗は、信仰又は、想像上の霊神であって、防災、鎮火の守り神として信仰され、平素は山中に住み、鼻高く羽翼を有しているという。手足の爪は長くて羽団扇を持ち、あるものは鼻が長く突き出ており、あるものは嘴を持っている。天狗は非常な大力で神通力を有し、一度怒れば天災地変をおこすというので恐れられている。 塩田町の唐泉山に鎮座する八天神社は、防火の神として江戸時代には肥前国一円から広く尊崇されていた。この日子神社の八天狗は、拝殿の左側に安置されている。造立銘等は記されていないが、この日子神社の創建は、寛永3年(1626)とされていることからこの年代に造立されたものと思われる。 この八天狗は町内でただ一つの八天狗として貴重な存在といえる。
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八大龍王
わが国では、古くから水神の本体として蛇が崇敬されていた。中国文化の影響を受けて蛇と龍とが同一視され、水神としての龍が崇敬されるようになって、各地に「龍王」、または「八大龍王」の石祠が祀られるようになった。終末処理場の北方約100mの所で通称一本松といわれている。 古老によればこの地区は干拓がゆえに年中、干魃に悩まされているため地区の人々が、水神である八大龍王を雨乞いの祈願のため建立したといわれている。 この地区が圃場整備の対象地域になったため昭和57年丸目の福寿庵に移された。
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観世音菩薩
観世音菩薩は、一般に観音さんと呼ばれ、地蔵菩薩と共に庶民の信仰が厚く、観音はすべての衆生を救済するため、それに応ずるように33の姿を現わすといわれている。 頭部に11の顔をあらわしている変化観音の一つで、わが国ではきわめて古くから信仰され、変化観音の中では最も多くの遺例をもつ尊像である。平安以後になると日本全国にわたって普及してゆく仏教信仰とともに数多く造顕された。
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十一面観世音菩薩
旧西与賀小学校の裏で、十三仏橋の傍にある。古老によればこの橋の名前の由来は十三仏が祀られていることからだという。ここには種々の石祠が祀られているが、ひときわ目立つのが宝冠に化仏を頂く十一面観音像である。像容は全体として完構を保っており江戸後期における彫造様式を今にとどめている。 十三夜待は13日の夜、虚空蔵菩薩を本尊として礼拝、勤行した行事で、一般に十三夜の月見は9月13日夜が有名である。その供養のしるしに建てられたのが十三夜塔で、それを十三仏と呼んでいる。 現在も地域の人々の手厚い信仰により毎日香花がただよい無病息災の願望がかけられている。 台座に次のような造立銘と寄進者名が記されている。 文政十二年十一月一日 竹下利助 立川平蔵 野中卯平次 立川傳四郎 寺崎忠助
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馬頭観音
馬頭観音は、観音の変化像であり、六観音あるいは七観音の一つに数えられ、他の観音が慈悲相であるのに対して、忿怒の形相に造像されるところから大力持明王、馬頭明王、馬頭金剛明王などとも呼ばれ、八大明王の中にその名が見られる。 造立の目的は、牛馬、特に馬の供養と結びついたものである。馬の供養や無病息災の祈願をこめて建てられている。時代が下るに従って特定の死馬の供養の目的で造立され、墓標的な意味を持つものも出現する。これらの観音は主として牛馬に関係ある職業の人たちの講集団や個人に信仰されて石仏が造立された。
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六地蔵
二本継ぎの方柱石を生け込みにし、竿石の上に中台をのせ、その上に尊体を安置し、宝珠のついた笠石をおいた構造を基本形式としていて、尊体は6体の半肉彫の地蔵尊を円筒状に配したもので、六道の衆生を救済するために造立されたものである。造立の趣旨は、仏が修行僧に身を変えて六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天上道)の道をはずした衆生を救う仮の姿とされ、室町時代の戦乱の世に地蔵信仰として隆盛、そのまま形を残してきたといわれ、寺院の門前や墓地の入口に一般に見られるようになるのは室町末期頃からといわれている。
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六地蔵
旧西与賀小学校南方約150mの所に1本の榎がそびえている。この六地蔵は榎の傍にある。造立年代は竿石に「元禄九丙○年(1696)二月時正月」と記されその横に次のような銘が記されている。 「生生父母世世兄弟 悉皆成佛後我成佛」 六地蔵のすぐ傍に堀が東西に走っている。この堀を地元では此宇堀といっており、有明干拓の際、東は元相応から高太郎そして御舟小屋にかけて潮止め工事が行われたといわれ、現在も当時の杭の跡が諸処にみられる。
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大神宮塔
大神宮講は、伊勢に鎮座する皇大神宮を崇敬する人々によって講成された講組織であって、伊勢講とも呼ばれている。 伊勢講の文献上における初見は、室町時代初頭といわれ、江戸時代に入ると伊勢信仰は全国的に広まり、伊勢講は各地に分布し、御師は各講を回って、伊勢講の普及につとめた。 この頃庶民は、単独で伊勢神宮に行く費用の負担が大きいので、伊勢講で講金という形で金を積立て、これを旅行費用にあて、交替で伊勢参宮を行った。いわゆる代参講的な形になっていた。そして代参者は天神皇太神宮と豊受大神宮の両大神宮に詣で、講員の数だけ神札を受けて帰村しこれを全員に配布した。
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庚申塔
60日に1度めぐってくる庚申の日に、その夜を眠らずに過ごして健康長寿を願う信仰がある。これを庚申待という。この源流は、人の身中にあって人を短命にする三尸(さんし)を除去して長生を願う道教の信仰にある。 わが国にも古くからこの説が伝わり、平安時代には貴族の間で庚申遊びが催され、次いで武家社会にひろまり庶民の間には室町時代より普及し、江戸時代に「庚申待」または「庚申講」と呼ばれ庚申行事が全国的に催されるに至った。庚申講は講中が一定の場所に集まって、食事を共にし話は庚申の晩といわれるように雑談などにふけって一夜を過ごしたといわれる。庚申講は江戸時代にその最盛期を迎えているが、江戸時代末期ごろには早くも衰微し、今日庚申講を催している所は非常に少ない。
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猿田彦大神
猿田彦大神は国律神で、天孫をまちうけて案内した神である。室町時代には道祖神、さいの神、船玉神などとされた。 江戸時代中期以降、庚申の神として猿田彦は大いに盛行し庚申塔に刻まれ全国的に普及した。また屋敷神として鬼門除けのために造立したり三隣亡除けなどにつくられたものともいわれている。
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二十三夜塔
特定の月齢の夜に講中が集まり、飲食をともにし、月の出を待つ行事を二十三夜の月待という。月待は二十三夜に限らないが、二十三夜待が最も普及している行事である。 本県内における二十三夜講は、江戸時代の後期頃から盛んに催されるようになり、ほとんどの講員は男子のみで、女の講は存在しないようである。この夜の本尊は勢至菩薩といわれ精進することなどの言い伝えもある。
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英彦山(ひこさん)権現塔
福岡県田川郡添田町の英彦山に鎮座する英彦山神社は英彦山権現と称し、一般には豊前の彦山と呼ばれていた。この英彦山権現は、平安時代以来、修験道場として栄え、九州における修験道の本山地位を有していた。佐賀藩主も英彦山権現を深く崇敬していたが、寛永14年(1637)に佐賀初代藩主鍋島勝茂が銅鳥居1基を英彦山権現に奉納している。 本県内では、江戸時代に入ると英彦山参拝が盛んとなり、各地に英彦山講が組織されて代参も行われるようになった。
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経典供養塔
経文を読誦(どくじゅ)することによって功徳を得ることは仏教修行の一つである。したがってその信心する経典の名称や経文を石に刻んだり、読誦した内容を後世に伝えるために石に記録するのもその信仰心のあらわれである。 このほか写経することによってその経典の功徳を得ようとする目的での修行による写経行為もあった。
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万霊塔
万霊塔は、塔自体に有情と呼ばれる生命あるもののことごとくの霊を宿らせ、この塔を回向することによって万霊を供養するということを目的とするものである。 三界とは、欲界{食欲・淫欲・睡眠欲のはなはだしい世界、色界(欲界ほど粗悪でないが、微妙なる形体を有する世界)、無色界(形体を離れ、ただ精神のみが存在する世界で、一切の生物の生滅流転してやむことのない世界)}から成っている。 ※写真は丸目海童神社の万霊塔
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三界万霊塔
万霊塔は寺院の境内や墓地に建てられている場合が多い。これは造立することが目的でなく、万霊塔自体に世の中における生命あるものことごとく霊を宿らせ、日常多くの人々から回向を受けやすい場所に建てられる例が多い。この万霊塔も墓地の中央に建てられている。方柱台の上に文殊菩薩が安置され、正面台石に、「三界万霊」、右面に「化主大岩乗」、左面に「法華経一字一石」、裏面に造立銘が、「元録十一甲申年四月祥日、石工武常徳右衛門」と記されている。このようなことから、江戸時代中期に建立されたことがわかる。 文殊菩薩は、菩薩の中でも最も知恵が優れているといわれている。この寺の菩薩も学問の仏として近在の人から特に信仰を集めていたといわれている。
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西与賀町内の万霊塔
相応上 日子神社 三界萬霊 元禄貮(1689)己巳 六月吉祥日 今津下 円光院 三界萬霊 明和五(1768)戊子 7月吉日願主 地蔵講中 御詠 歌女中 高太郎 泊舟院 有縁無縁三界萬霊 元禄十二己卯年(1699)二月時 正月 ○往 ※写真は3枚とも有縁無縁三界萬霊塔
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蝗(いなご)神
石祠の表面に「司蝗神(つかさどるいなごかみ)」右面に「寛政四年(1792)壬子仲冬吉日、村中敬立」と印刻されている。記録によると江戸時代中期の享保17年(1732)6月中旬の頃、筑前で蝗虫が発生し、田園を食い荒しているといううわさが領内に伝わった。7月上旬になると砂をまくように発生し、それを防除するのに、田の水上に油をふって虫を水下に追い流し、そこに大きな布の袋をあてて流れ落ちる虫を受け入れた。しかし、それでも袋一杯になるほど集めても、すぐ虫は次々にわくように発生し、とうとう百姓は精魂がつきて田を見捨ててしまい、ただ食物を求めて東西を走りさ迷う様相を呈したといわれている。虫の防除のために、鯨油をはじめ油の類は高値になり他方では米穀、藁麦、粟など1日ごとに高値を呼び、量も減る一方であった。この時佐賀領内だけでも死者5万人、牛馬9千頭が死んだとされている。死者は寺院に送って葬ったが、行き倒れの死骸が田や道ばたに積み重ねるほどであったといわれている。 この供養塔は享保の飢饉以後60有余年、虫の霊を鎮めるため農民の素朴な祈りのなかで建立されたものではないかと思われる。 市内大財町の仏心寺には佐賀藩主6代鍋島宗教がかつての惨状を偲び不幸な餓死者の冥福を祈るため建立した供養塔がある。その銘文は次の通りである。 「本州 餓死者累葬の墓 庶民」 側面には「享保十七年壬子年」と刻んである。 享保18年5月20日には佐賀藩主5代鍋島宗茂が施主となって餓死者を弔う大施餓鬼を行ったと記録されている。 この蝗害について『泰国院様御年譜』には次のように記している。 「当秋大損毛の儀、享保子年以来無類の年柄にて、諸郷村甚だ困窮に及び、其の内、至って極難の者共は、忍々、袖乞にも罷出候者、日を追って相増候様相聞候、尤も、御蔵入郷村の儀は、追々飢者御介抱願出に付、御手仰付らる儀に候、大小配分の儀は、その領主偖又地頭々々より右射の手当これ有る儀は勿論の事に候。時分柄飢寒差し迫り、自然非命し死亡等出来候ては御趣意に相叶はず、それ容易ならざる儀に候条、領主地頭として、右躰これ無き様筋々相達に成る……(略)」とあるように、藩直轄地のみならず家臣の知行地における困窮者の救済について配慮がなされている。
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犬神供養塔
旧西与賀小学校の北方約30mの通称犬神堀の一角で竹やぶの中に所在している。古老によればこの場所は昔からたたりがあるから誰も近寄らないといわれている。 犬神供養塔は自然石に犬神と2字が印刻されている。建立年月日は不明であるが、この傍に建立されている「法界万霊」の石碑が江戸中期の享保6年(1721)に建立とあり、ほぼ同年代ではないかと思われる。 この建立の目的は明らかでないが、徳川5代将軍綱吉が、貞享4年(1687)に生類憐みの令を出しており、佐賀でも犬を集めて祀ったのでないかといわれている。 一方『日本国語大辞典』によれば、犬神憑物(つきもの)の現象の一つで、また憑物の動物の名称で、ネズミなどの姿をしているともいい、この目に見えない小動物が、他人に害をなすという。これをもつ者は女系を伝わって継承するもののようにいい、その家筋は犬神持ちと呼ばれて恐れられ、縁組などを忌避されてきた。このようなことは中国、四国、九州地方で多くいわれていたが、昨今ではこのようなことをいうものは何人もいない。