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[建造物][学校][循誘校区]は3件登録されています。
建造物 学校 循誘校区
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循誘小学校
循誘小学校の誕生は、明治8年教正小学校という名前で紺屋町に創立されたのが始まりで、明治17年循誘公民館西隣りの長徳寺南側に当時の予算3,000円で柳町校舎が建設され、明治19年1月21日移転して開校された。学校敷地は、当時思案橋で酒造業をしていた下村辰右衛門(後に国会議員となった)が寄付したものであり、また、佐賀市仲仕組所が500円を寄付した。循誘小学校百周年記念事業が、昭和50年に盛大に実施されたがその記念誌には、この柳町校舎で学んだ人達の思い出が掲載されている。明治44年6月1日、この柳町校舎も老朽化し、狭隘となったので巨勢村に移転。その頃は校舎も新しく、校地も広く佐賀県一小学校といわれていた。小学校の門は佐賀市高木町にあるので小学校の住所は高木町となっている。また、同年それまで勧興校区だった呉服町、千代町、新馬場、馬責馬場、通り小路等が循誘校区に変更された。大正14年には創立50周年の記念式典が挙行され、その記念として校門から南の佐賀劇場手前までの直線道路が通学道路として完成した。このときに架けられた橋に『記念橋』とか『循誘橋』の名前が付けられた。昭和10年5月国鉄佐賀線が開通し、初めての汽車が通るとき、循誘小学校の子どもたちは、線路に沿って日の丸の旗を振って祝ったといわれている。この汽車は通常ガソリンカーと呼んでいて汽車の発車する時の汽笛が『ポーッ』とでなくラッパを鳴らすように『プウッー』と鳴らしていたのが印象深い。この佐賀線は、三国線とも呼ばれていて肥前、筑後、肥後を結ぶ予定で熊本の南関町まで開通する予定であった。児童の数は、創立時は118人であったのが大正10年以来常に1千人を超えていて、昭和35年には最高の34学級の1,750人を記録した。これは戦後のベビーブームが一度に押し寄せたもので、急激な児童数の増加に伴い、どこの市町村でも教室の建設に追われ苦労の時代が続いたようである。この当時佐賀県では大町小学校で3千人を超えた記録があり1学級50人から60人位で教壇のすぐ側まで机を並べていたことも珍しくなかった。しかし近年は子どもの出生率も低下し、児童数も激減している。
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佐賀龍谷学園発祥の地-願正寺
西本願寺の第21代、明如門主は真宗教学の振興、青少年の育成のために、新しい学校制度を促進した。その一環として佐賀でも県内の真宗寺院が協同して、明治11年4月に、願正寺内で小教校が発足した。はじめは振風教校と名付けられたが、西肥仏教中学となり、さらに第五仏教中学に改められた。生徒数が増え、校舎が足らなくなったので、明治36年に、現在の水ヶ江の地に移転した。その後明治41年4月からは私立龍谷中学校として新たなスタートを切った。 「龍谷」の校名は、願正寺第11代住職の熊谷広済初代校長が、京都東山にある親鸞聖人の御廟(大谷本廟)に詣でた折、「龍谷山」とある山号の扁額を見て決めたということである。この「龍谷」の校名は、その後、京都の龍谷大学(大正11年命名)以来、旭川龍谷高校、札幌龍谷高校など、真宗関係の多くの学校に付けられたが、佐賀だけは、佐賀の地名を入れず、龍谷中学、龍谷高校と称している。最初からその校名であり、他校がそれと区別して校名の最初に地名を付けているのである。 昭和53年には創立100周年を記念して、当寺参道に「振風教校跡、佐賀龍谷学園発祥地」と刻まれた記念碑が本学園より建てられている。
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行学塾
材木1丁目の本経寺の山門に「行学塾」という木片がかかっていた。塾の経営者は住職の籾井恵学、対象は旧制中学生で塾生は10名前後であった。 英語の教え方は独特で、先ず前回出された宿題のテストから始まった。従って宿題をなまけるとついていけない。また英文法などは「名代動形副前接感」などとお経式で教えられた。 行学塾の名の通り躾面でも厳しく、勉強中は座り机に正座、玄関の履物も「地震や火事の時はだしで飛び出すのか。」と出船型にきちんと並べることが求められた。 また土曜の夜は本堂の御本尊前で坐禅があった。正座して耳と肩は一直線、へそは垂直、ひざはこぶし一つ開け、手はせい下丹田において生卵をそっと抱くように組み、腹式呼吸をできるだけゆっくりし、蚊がきても払うな、というものであった。もちろん15〜6歳の中学生、煩悩の滅却どころか足のしびれと柱時計の音だけが気になっていた。 その他寒い冬の朝でも水をかぶるように言われ、自らも井戸で水かぶりを示してくれた。これを実施したか否かはテスト用紙に○×で報告した。この水かぶりは年齢とともに冷水まさつ、乾布まさつと変わってきたが、たしかに風邪の予防にも役立っているようである。 こうした厳しい一面だけでなく、古湯まで自転車で登ってレクリエーションをしたり、黒髪山登山に連れていったりする面もあった。ここで学んだことは塾生の一生の心の糧となった。 なお、終戦の頃高木町観照院の住職となられたが、戦後生まれの人も観照院の塾で学んだ人がいるので、後年まで塾はあったらしい。