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[指定文化財][考古資料][久保泉校区]は5件登録されています。
指定文化財 考古資料 久保泉校区
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舟形石棺(附あり) 一合
重要文化財
佐賀市久保泉町川久保にある標高55.5メートルの熊本山の北側高所から箱式石棺1基、南側高所から箱式石棺5基と舟形石棺1基が昭和36年(1961)に出土した。 舟形石棺は、径30メートル余りの円墳と思われる高まりの土中に直接埋置されていた。福岡県八女(やめ)地方産の阿蘇熔結凝灰岩を3室に刳りぬいた身と蓋(ふた)からなる石棺は、長さ4.3メートル、最大幅88センチメートル、身の最大高53センチメートルと長大で、内面は赤く塗彩されている。身・蓋とも刳り抜きや両端にある孔は対応し、身の両側面にも円孔が見られる。身の底部は、舟底形を呈しゆるやかな曲線をえがき、内部は、主室を中心に両端に副室を設けておりその構造は舟型石棺の名称にふさわしいものである。 中央室の刳り抜きは長さ2.03メートルで、造り出し枕に頭を置いた人骨1体と差し違えてもう1体の人骨があり、鉄剣2口・鉄刀1口が出土した。中央室の両側にある小形の刳り抜きのうち、枕側の北室に多くの副葬品が納められており、南室からは用途不明の鉄製工具1個が発見されたのみである。 北室からは、革綴(かわつづり)式の短甲(たんこう)1具、四獣鏡1面、鉄剣1口、釶(やりがんな)1個、鉄針1本、ヒスイ製とメノウ製の勾玉(まがたま)各1個、碧玉製管玉(へいぎょくせいくだたま)18個、水色のガラス製小玉162個、碧玉製紡錘車(ぼうすいしゃ)2個が出土した。獣帯鏡(径10.7センチメートル)は徳島県節句山2号古墳出土鏡と同じ鋳型で鋳造されたもので、熊本山のものが後鋳品である。 この舟形石棺は、その構造および副葬品などからみても、畿内地方の文化の影響を強く受けた5世紀前半ごろの所産であると考えられる。
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西原古墳出土石製表飾遺物 一個
重要文化財
西原古墳は脊振山系南麓の低丘陵上に築造された、横穴式石室をもつ全長約60メートルの前方後円墳である。 ここからは「石人・石馬」といわれている石製表飾遺物が出土しており、県内では唯一現存するものである。造営時期は、埴輪などから5世紀後半ごろと推定される。 この石製品は、基部を欠き、中央部には個人の庭石に使われていた際に開けられた二次的な孔が施されている。 残存長77センチメートル、最大幅46センチメートル、最大厚13センチメートルである。中央部には横帯を持ち、上部先端は両角とも欠損している。翳(さしば)・盾(たて)・靫(ゆき)のいずれかをあらわしたものである。 いわゆる石人・石馬は、古墳時代中期から後期にかけて北・中九州を中心に分布するものである。西原古墳のものは、その中でも初期の段階に属するものであり、地理的には最も西側で確認されたものである。
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丸山遺跡三号墳舟形石棺 一合(附)鉄剣二口 鉄矛一口 鉄刀子四口 土師器十点(四個以上)
重要文化財
丸山遺跡は、久保泉町大字川久保に所在し、狭い範囲に密集した竪穴式石室・横穴室石室・竪穴系横口式石室・舟形石棺・小石室といった多様な内部主体を持つ5~6世紀の古墳群に特徴づけられる。 3号墳は径13.8メートル、周溝まで含めると径16.6~16.9メートルの円墳で、墳丘上には葺石(ふきいし)を持つ。内部主体は墳丘中央部に直葬した1基の舟形石棺である。石棺は長方形の墓壙に埋置されていた。石棺内部には3体分の人骨が遺存していたほか、鉄剣2口・鉄刀子2点が副葬され、棺外には鉄矛1口・鉄刀子2点が置かれていた。また、墳丘上及び周溝内からは土師器甕・高杯・小型壷が出土した。これらの出土遺物から5世紀後半の年代が考えれられる。 石棺の石材は身・蓋ともに阿蘇熔結凝灰岩である。蓋は、全長232センチメートル、頭位幅114センチメートル、足位幅100センチメートル、高さ50センチメートルをはかり、いわゆる四柱屋根形をなし両方の妻には円柱状の縄掛突起が造り出されている。棟部には狭い平坦面を設け、屋根は直線的に周縁部に延び、平縁を有さない。身は、全長235センチメートル、頭位幅117センチメートル、足位幅104センチメートル、高さ56センチメートルをはかり、小口部には円柱状の縄掛突起が造り出され、周縁部には縁辺突帯がつく。側面はわずかにすぼまりながら安定した平底へ続く。内部は平面長方形にほぼ垂直に刳り込まれており、長さ181センチメートル、頭位幅74センチメートル、足位幅69センチメートル、深さ39センチメートルをはかる。蓋・身ともに内面は赤色顔料で塗彩されている。 この舟形石棺と同形式の石棺は、熊本県菊池川下流域と福岡県大牟田市周辺に集中して分布している。このことは佐賀平野と筑後南部・肥後北部との関連を示唆するものであって、5世紀後半における北部九州の社会・政治体制を検討するにあたって重要な資料と位置づけることができる。
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佐賀市花納丸古墳出土遺物 一括(附)花納丸古墳出土遺物の記録 一巻
重要文化財
佐賀市久保泉町大字川久保字上分にあった花納丸(かのうまる)古墳の出土品とそれら遺物の記録である。今日に伝わる遺物に変形文鏡1面、三環鈴(さんかんれい)1点、管玉(くだたま)11点があり、5世紀後半代に比定される。 記録では、天保11年(1840)11月に花納丸古墳が、破壊された折に、前記の遺物が石室の3隅から出土し、ほかに長さ45センチメートル位の鉄刀と鉄線をよって金メッキしたような釘が発見されたと伝えている。 変形文鏡は、面径9センチメートルの仿仿製鏡(ぼうせいきょう)である。背面の文様は、円座鈕(えんざちゅう)のまわりの内区に8個の乳(にゅう)を配し、各乳を双脚文(そうきゃくもん)が囲んでいる。その外に割り付けの乱れた複線波文・外向きの陽起鋸歯文(きょしもん)をめぐらし、縁は素文である。三環鈴は青銅製で、径3.8センチメートルの環体の三方に径2.7センチメートルの鈴が直接ついている。小型品に属する三環鈴であり、馬具の一種である胸繋飾(むながいかざり)とも推定される。管玉はいずれも碧玉(へきぎょく)製で、孔は片方から穿(うが)たれている。長さは2.3~3センチメートルである。 記録は二葉からなり、現在は巻子(かんす)に表装されている。1葉は、佐賀藩の儒学者、草場佩川(はいせん)(1787~1867)が書いた記録・考証と画家、歌人、古川松根(まつね)(1813~1871)の模写図を入れた版摺(はんず)りで、遺物が出土した翌年冬の刊行である。他の1葉は、佩川の草稿の写しである。記録の公表には国学者、南里有隣(1811~1864)も加わっている。これらは藩政時代の貴重な考古学的資料である。
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関行丸古墳出土遺物 一括
重要文化財
佐賀市久保泉町大字川久保に所在する関行丸(せきぎょうまる)古墳から出土した遺物である。関行丸古墳は、西南向きの全長55メートルの前方後円墳である。 関行丸古墳の内部主体は短い羨道(せんどう)をもつ横穴式石室で、後円丘の前半に位置し北側くびれ部に向かって開口する。石室は長さ4.35メートル、幅2.8メートル、高さ2.65メートルで、石室の奥側半分に板状の仕切石で3つの屍床(ししょう)を造り、各屍床から合計4体の人骨と副葬品が、また、石室の前半部と羨道部からも遺物が出土した。 第1屍床からは熟年~老年男性とともに方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)(径10.1センチメートル)、歩揺(ほよう)と魚形をとりつけた金銅製半筒形装飾具(長14.9センチメートル)1双1具などが出土した。奥壁に接した第2屍床からは若年1体(もう1体か)と、珠文鏡(径7.3センチメートル)、金銅製冠片・貝輪・刀子(とうす)・尖頭(せんとう)工具が、また第3屍床からは熟年~老年人骨と20歳くらいの男性人骨、変形文鏡(径7.6センチメートル)、珠文鏡(径8.8センチメートル)・勾玉(まがたま)・棗玉(なつめだま)・管玉(くだたま)・ガラス小玉・貝輪・刀子・鏃(やじり)・鞘尻(さやじり)状金具が出土した。石室前半の床面からは鏃のほか鉸具(かこ)・鋲留(びょうどめ)金具などの馬具類が、羨道閉塞(せんどうへいそく)の詰石(つめいし)近くから三環鈴(さんかんれい)などが出土した。三環鈴は、外形11センチメートルの大形のものである。中に入る鈴子もそれにふさわしく径2センチメートル前後の丸石である。 関行丸古墳は未盗掘墳であり、石室構造の特徴や鏡・金銅製品・貝輪・三環鈴などの出土遺物からみて紀元500年前後に築造・追葬されたもので、古墳文化を研究する上で価値の高い資料である。