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[神社仏閣][仏像][金立校区]は2件登録されています。
神社仏閣 仏像 金立校区
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吹上観音像
金立山登山口より笹や木の葉に埋れた細い山道を曲りくねりながらたどって行く。道とは名のみでわずか歩行者の踏みならした小径があるだけで急な坂道を約30分ほど、距離で約2㎞あまりで到着する。 金立神社御縁起記によれば元禄以前此の所に瀑水がかかっていてその下に観音大師の像が安置してあり肥前の国三十三観音所の一つとして参詣者が非常に多かったと記してある。ところが元禄の頃、或日疫雷、暴雨が起こり山川震動して崖は崩れ堂は倒れて忽ち大士を失い、此処はただ魁らい巨石が巍然として立ったすがたに人々は皆驚異の眼を見はった。 そしてその後はこの崖石を崇拝し吹上観音と号するようになった。その後山麓の住人、小川藤原俊方が元禄6癸酉(1693)石工に命じて石面に正観音の石像を刻んだとある。御縁起記によれば造立年代は江戸時代中期である。山道沿いの高さ7mの花崗岩の岩壁の表面に花頭窓ようの輪郭をつけて彫りしずめ蓮花座に安座する。像高約80㎝、輪郭の高さ約1mで、全体的に風化はほとんどみられず当初の彫像様式を今にとどめている。今もその周辺は数基の石塔が存在し、霊山らしい神域をいやおうなしにかもしだしている。 いずれにせよこの磨崖仏は市内で最もすぐれた作として仏教史研究上きわめて歴史的な価値を有している。
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お辰観音像
東千布観音周地に建つ小さな観音堂に等身大のお辰観音が祀られている。玄蔵の娘お辰は徐福と恋仲となったが、徐福が一族の長であり毎日多忙であることから時々機会を作って恋を語り思いをとげる外途がなく逢う瀬が少なくなりお辰は遂に所謂恋わずらいとなり、果ては明日を知れぬ重態になってしまった。お辰は「自分は思うこと叶ずして死出の旅路をたどることとなるが、私の死後私を祀ってくれるものがあれば参拝する諸人の願を叶えてやる念願をもっている。」と言い遺したので、其の後近郷の人々の間で話し合いお辰を形どる観音像を作り祀ったのが、今の観音像と伝えられている。功徳として結婚祈願をよく成就すると言われている。50年毎に行われる所謂「金立神社のお下り」のときは、必ずお辰観音が出迎え一夜を共にする行事が今でも行われる。 昭和58年2月にお辰観音堂が修理された時に次のように記載された棟札が発見された。 上棟南無大悲観世音菩薩 現三十三身而祓苦與楽除災集福 国家泰平村中安穏五穀成就 奉勧請 吉田氏 こノ時 延享二年 閏十二月吉日良辰 建立自主 吉田五兵衛尉 大工 石丸軍平尉正長 小工 若二 昭和五庚午一月吉日良辰 建替 大工 小寺初次