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[神社仏閣][神社][三瀬村]は12件登録されています。
神社仏閣 神社 三瀬村
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野波神社
社号 野波大明神 祭神 仲哀天皇・神功皇后・武内宿弥 淀比吽大神(淀姫神) 應神天皇の御代、西暦268年に勧請された神社で当地では最も古く、棟木札銘(昭和28年焼失)には次のような記録が残されていた。 文中2年(1373)再興。 長禄2年(1458)再建。 元亀2年(1571)再々建。 宝永元年(1704)再々々建。 天保14年(1843)3月、1575年祭施行。 今から1700余年前の古墳時代初期に勧請されたことになる。 社伝によれば、往古、神功皇后が三韓征伐のため筑肥御通過の折、この地にもおいでになって、宇土の大石に腰をおろして休息せられる時、一帯の風光を眺められて「最も能き野奈美哉」と仰せられたので、この一帯を野波の里とよぶようになった。また、大石の前の河で御裾を麗がれたので、その地を渡瀬の手洗松と言い伝えられた。その御遺跡に御社を営み、古くから神埼佐賀七山の宗廟として崇め、上下の信仰が厚かった。七山というのは、杠・関屋・小副川・菖蒲・畑瀬・松瀬・名尾の七山である。 室町時代、嘉吉2年(1442)の初春には、阿波の国の住人杠日向守が下向して当地の領主となり、神田五町歩を寄進して年々の祭祀を盛んにした。その後、天正年間(1573~1591)の頃には、神田等多数の領主から寄進があって、年中盛大な神祭りが行なわれたという。降って江戸時代の延宝2年(1674)2月には、杠権右衛門尉藤原吉満が、「七山宗社」の額と「宝物」数種を寄進して祭祀を行なった。 近代になって、明治6年10月31日村社に指定され、仝43年10月13日に神饌弊帛料供進の指定を受けた。また、同年には村内の無格社が整理統合され、それらの祭神10柱「手力雄命・久久能智命・武甕槌命・級長津彦命・素戔嗚命・大雀命・菟道穉郎子・菅原道真・源義経・十城別王」外合わせて15柱が別神として本神社に合祀された。 昭和27年北山ダム開発によって社地(明神原)が水没することになり、社地社殿を詰ノ瀬山に移転改築し、同年12月13日に遷座式を執行した。 昭和28年4月8日未明、不審火によって炎上し、全焼してしまったが、ただちに同地に再建された。このとき焼失したもの。 「七山宗廟野波大明神」-拝殿入口の額 「七山宗社」-弊殿入口の額「銚子」二、「瓶子」 三、何れも木製 「表札」-神社の伝説口碑を記したもの 御神体は古来「グミの木」と言われていたが、陶器製のものだけが焼け残っていた。 昭和48年には、詰ノ瀬山にゴルフ場北山カントリークラブが開設されることになり、再び遷座のやむなきにいたった。海や河川にかかわりの深い祭神淀姫神の霊示が具現されたのであろうか、ダム湖水を眼下に見おろす中谷山の現地に社地社殿が構築され、同年12月遷座式が盛大に執行された。 淡島明神 野波神社の境内には、別に淡島明神を祭った小社殿がある。土地の人は「あわしまさん」とよんでいる。何時の頃勧請されたかは明らかでないが、淡島信仰は和歌山市の淡島明神を中心として広まったと言われ、江戸時代中期の元禄年間ごろから、淡島願人とよばれる一種の物もらいが、諸国を巡歴して婦人病に効験あらたかな神として信仰をすすめた結果、民間に広く普及し、とくに花柳界の女性の間に広く信仰されるようになった。 和歌山市加太町にある加太神社が淡島明神として著名で、祭神は少彦名命・大己貴命(大国主命)・息長足媛命(神功皇后)の3柱で、婦人病に霊験あらたかとされ、縁結び・医薬・海上鎮護の神として信仰される。 野波神社の淡島明神も、もちろん婦人病に効験あらたかとされ、安産・長寿・海上河川鎮護の神として、山内山外の人々に信仰されてきたのである。
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下ノ宮
社号 下ノ官 祭神 息長宿祢命・葛城之高額媛命 創立不詳とされているが、野波神社の下宮であるところから、おそらく野波神社と同じ時期に勧請されたお宮であろう。 下宮が本宮よりも上流に祀られているところに不可解な点もあるが、祭神の息長宿祢命と葛城之高額媛命は神功皇后(息長足媛命)の御両親であるので、上流に祀られていても不思議ではない。 野波神社の例祭のときには、現今でも当宮との間に御神輿の上り下りの行事が行なわれている。
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杉神社
社号 杉大明神 祭神 仲哀天皇・神功皇后・武内宿祢 鎌倉時代の文永元年(1264)、摂州の士(一説に東国の士)野田周防守大江清秀が家来を率いて北肥山内に入り、三瀬山村の杉屋敷に設営した。この杉屋敷は古くから清浄の霊地とされていたので、周防守は他に要害の地を探し求めて、山中の地(現在の地蔵屋敷)に館を構え、金山城を築いてこの村一帯を掌領した。 同年9月、清浄の地とされる杉屋敷には、小城山大宮司嘉村左京進宗章に命じて、筑前香椎宮から分霊をいただき、領地の守護神として勧請し、社殿を造営して社号を杉大明神と号とした。 そうして、昔神功皇后三韓征伐の時、豊前国池田邑の杉山に登られて、天神地祇の擁護を祈願せられ、手づから杉枝を鎧にさし給うたという古事因縁によって、当地境内に杉1万株を植えて神木とし、世々神祭を執行した。 明治4年12月22日に列せられ、明治40年代の村内無格社の整理統合によって他社の祭神、少彦名命・天照大神・龍田大神・大己貴命・豊受大神・宇賀魂命・市杵島姫命・源義経・神代勝利外、合わせて13柱を合祀した。 明治44年2月15日、神饌弊帛料供進の指定を受け、昭和20年まで村の鎮守の社と崇められてきたが、戦後は村社の指定もなくなり、寄せ宮の復興とともに氏子も減少した。
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唐河神社
社号 唐河大明神 祭神 天児屋根命 神体 青石 神紋 三ッ寄十二菊花 平安時代末期の久寿元年(1154)、藤原鎌足11世の後胤藤原兼家9世の孫で、禁守護北面の士、大和国の住人藤原式部少輔兼基は、西国鎮撫のために肥之国に下向したが、乱が鎮まった後この山内に来住し、柳野山に陣を築いて城主となり、一帯の数ケ山を掌領した。そうして、生国大和国の春日大明神を勧請して柳野山早馬大明神を建立し、領地の氏神として祀った。 その後、嫡男大和守兼隆は、建保元年(1213)に柳野山の地名を薙野山と改め、姓を薙野氏と名のった。そうして、社殿を薙野川辺の岸高に造営して天児屋根命を祀り、社号を唐河大明神と号した。同時に矢房大明神と七郎神もここに合祀した。 それから358年後の元亀2年(1571)3月3日の夜、池田村の住人傅寿という者の枕辺に春日大明神が現われて「池田邑の池の中に神体がある。探し求めて祭祠せよ」という夢の御告げがあった。早速村人と相談して池の中を探したところ、当地には産しない壱個の青石を発見したので、これを御神体として神社に斎き祀った。 その後、享和元年(1801)9月に拝殿堂宇を修築して鳥居を建立、近代になって大正10年(1921)に700年祭を執行、昭和28年(1953)5月24日神殿拝殿の再修築、昭和49年10月3日750年祭を行ない今日に至っている。 親神の春日大明神(春日神社)は、元明天皇の平城京造営(710)にさいし、藤原氏の一門が従来奉じてきた神を三笠山のふもとに祭ったのが起源で、藤原氏の氏神として伊勢神宮・加茂神社についで重んじられた神社である。 祭神は4座で、第1殿に武甕槌命(鹿島神)・第2殿に経津主命(香取神)・第3殿に天児屋根命(枚岡神)・第4殿に比売神(枚岡神)を祭ってある。 上四柱の祭神のうち天児屋根命が藤原氏の祖先神である。 当地唐河神社の祭神が、春日大明神を勧請したにもかかわらず天児屋根命1柱になっているのは、藤原式部少輔兼基以下、一族領民の氏神としてこの祖先神だけを祭ったからであろう。 天児屋根命については、天照大神を天の岩屋(戸)からさそいだす祭典のとき、布刀玉命と力をあわせて天の香具山の雄鹿の肩の骨をそっくり抜き取ってきて、天の香具山の朱桜(木の名)をたいてその骨を焼き、祭式の次第をどのようにするかを占い、式典がはじまると大神を迎えだす尊い祝詞をあげてはたらいたことが神話に伝えられている。また、天孫降臨のときには、五つの部曲の長をつとめる五柱の神の一人として瓊々杵尊にお仕えして天降って来た。 土地の人の間には、火の安全を護って下さる神様であると言い伝えられている。
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八龍神社
社号 八龍宮 祭神 綿津見神・龍田大神 明治4年に提出された神社調差出帳には次のように記録されている。 「人皇38代天智天皇の御代大職冠藤原鎌足の末孫 藤原内匠は藤原山の領主であったが、建久2年(1191)に上京するとき、海上で暴風雨にあい、船が難航してあわや沈没しそうになった。内匠は一心に八龍宮を念じ、「私がもし遅滞なく岸に着くことができたら帰国の上は領地宗廟の神として崇め奉ります」。と祈誓したところ、不思議に風波が静まって無事に岸に着くことができた。そこで帰国ののちそのときの誓を守り、翌建久3年4月上旬に八龍宮を造建して綿津見神(海神)を祀り、藤原山村の宗廟として崇敬し、家来の山本左京太夫貞房を神主に命じた。この地は内匠の居住地であったので藤原村とよんだと伝えられている。これまで八龍宮と称して いたが、明治の御一新によって綿津見神社と改称した。」 原文には和多津見神とあったが綿津見神に改め、読みやすくするため訳文にした。 社名改称のことは一般には知られていない。土地の人は現在でも八龍宮または八龍神社とよんでいる。 山内に海神が祭られている不審は前記の由緒によって氷解するが、このほか、少彦名命・淀姫神など海に関係の深い神々が数多く祭られているところをみると、三瀬山内には海を渡ってきて定住するようになった人々が多かったことを示すものであろう。 祭神の綿津見神は、上津綿津見・中津綿津見・底津綿津見の三柱の神で安曇連の祖先といわれ、志賀島を本拠とした海人族が祖神として斎き奉った神である。 また、綿津見神のいるところを綿津見の国と言い、ここが龍宮城の所在地であるという説もある。 このように八龍宮は海上鎮護の神として祭られ、伊勢参りやカミマイリをするときには海上の安全を祈願する人々も多かった。 祭神の龍田大神については、明治14年に記録された長崎県庶務課誌の三瀬村誌の部に提出されているので近代になって合祀されたものであろう。 龍田大神は奈良県生駒郡にある龍田神社の祭神天御柱命・国御柱命と考えられ、古来農耕生活の守護神として尊信されている。龍田の風神祭は天武天皇4年(676)に始まり、広瀬神社の大忌祭とともに、風による災害をしずめて豊作を祈る祭で、古くから有名である。 八龍神社は海上鎮護の綿津見神だけでなく、この農耕生活の守護神を合祀することによってこの土地にふさわしい神社となり、郷民の尊崇はますます厚く、年々祭祀を行なって今日に至った。
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日吉神社
社号 山王社(山王権現) 祭神 大山咋神 創立不詳であるが、比叡山麓の日枝神社にまつられている日吉山王権現の分霊をいただいて祭祠した神社である。 天文23年(1554)、当時の三瀬城主神代大和守勝利が、嫡男刑部大輔長良の病気平癒のお礼と、山王の神使である猿の霊をしずめるために、社殿を造建して寄進し、祭典を執行して以来、中鶴氏子によって年々祭祀が営まれるようになった。 伝説口碑によれば、今から400余年前、三瀬城主神代勝利が佐賀の龍造寺隆信に破れて一時三瀬城を去り、筑前国怡土の豪族原田了栄を頼って長野村に蟄居していた。そのころ、嫡子長良は一日鉄砲を持って猟にでかけたが、松の大木に野猿がのぼっているのを見つけ、射ようとして狙いをつけると、猿は腹をなでさすって両手をあわせ悲しそうに啼き叫んだ。長良には的を示して侮っているように見えたので、しのび寄って1発のもとに撃ち落してしまった。弾丸は狙ったとおり腹の真中に命中していた。得意満面の長良は家来に命じて持ち帰り、よく調べてみると、猿は腹に蔦かずらを岩田帯のように巻きつけていて、子をはらんでいるようす、早速小刀で腹を開いてみると、子が2匹はいっていた。長良はこれを見て、さてはあのとき、腹をさすって的を示しているように見えたのは、腹に子がいるから命を助けてくれるように両手を合わせ、啼きながら命乞いをしていたのかと哀れに思い、深く後悔した。 ところが、長良は、それからというもの、夜毎に啼き叫んで恨む猿の姿を夢にみてうなされ、昼はうつつに悲しそうな猿の姿が目の前にちらついて食欲もすすまず、身も心も疲れはてて気が狂ってしまった。 父勝利は嫡男の発狂に心を痛め、猿の死霊がたたったのであろうと思い、脊振山の住僧、伯耆坊・越後坊・燄雷坊・実相坊の四名に命じて、法華経妙典を真読具経させて祈祷したところ、法の功徳があったのか、猿のたたりが消えて長良の気分もおちつき、病気はしだいに快方にむかった。 全快ののち、勝利は猿の霊魂を後々まで鎮めるために、野波大明神・八龍宮・名尾山大明神ほか各山の領内に経塚をたてて法華経妙典をおさめた。別して上藤原中鶴山王権現は猿のつかえる大主神であるというので、新しい社殿を造建して寄進し、盛大な祭典を執行したという。 その後、氏子によって年々祭祀が営まれ、元禄7年(1694)には社殿腐朽のため改修、安永4年(1775)に鳥居建立、さらに前回の改修から百年後の寛政7年(1795)2月に老朽のため再び改築された。 近代になって、昭和15年(1940)、皇紀2600年記念事業として神殿を総石材で建築し、つづけて昭和30?年には拝殿も瓦葺に改築して現在に至っている。 祭神大山咋神は、山の神大山津見命(大山祗神)とは異なり、出雲系の大年神(素盞嗚尊の御子で年穀(稲)の神)の御子で、別名山末之大主神ともよばれる。山末というのは山の頂上の意である。元来比叡山の地主神とされていたのを、延暦寺の創建にあたって僧最澄がこの大山咋神と大物主神とを合わせて、寺の主護神としてまつったのが山王権現のおこりと伝えられている。 日吉山王権現には安産や縁結びなどを祈願するものが現在でも多いといわれている。 日吉山王の神は天台宗の寺院を中心に全国各地に勧請されているので、中鶴山王権現も脊振山天台宗の末社無量寺の主護神としてまつられたのであろう。 中鶴山王権現の氏子は、水に溺れて死ぬことはないと言い伝えられているが(杠保氏談)、祭神と神社の来歴からみて、安産・縁結び・銃砲狩猟の安全を護る神とするのか至当であろう。
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玉里神社
社号 玉里大明神・(別名)玉里七郎神 祭神 少名彦命・十城別王・神代勝利 神社境内の石碑には次のように刻まれている。 (表面) 祭神 十城別王 建永元年12月16日創建 距今713年 号 玉里七郎神 大正7年12月7日改築 (側面) 大正8年9月16日建碑 なお、鳥居額には玉里大明神と刻まれている。 鎌倉時代の建永元年(1206)の創建とあるが、口碑にはそれ以前にもっと上流の一谷に近い処にあったが、洪水山崩れにあい現在地に流れついたのでここに再建されたと伝えられている。 祭神は十城別王だけになっているが、神社明細帳には祭神少名彦神と記されている。 また、神社由緒調の当社々伝には 祭神 神代勝俊 第83代土御門天皇建永元丙寅十二月当社ヲ創建シテ井手野村ヨリ具座村迄六十余戸ノ氏神トス。而シテ元ハ玉里神社卜号ス。 とある。神代勝俊とあるのは神代勝利のことであろう。しかし勝利は建永元年よりも300余年後の永正8年(1511)に生まれているので創建当時の祭神は神代勝利ではなかったわけで、神代勝利はずっと後に合祀きれた神である。このように民俗の信仰は時代の変遷とともに変わっているが、少名彦命・十城別壬・神代勝利という3柱の祭神が当神社に祀られたことはまちがいない。 祭神の少名彦命は神産霊神の御子で、小人の姿で常世の国から訪れる神とされ、大国主命とともに協力して国土を造り治め、医薬・禁厭(まじない)などの法を創めたといわれている。はじめ郷民はこの神を守護神として祀ったのであろう。 十城別王は日本武尊の御子といわれ、仲哀天皇の弟で神功皇后とは義姉弟の間柄である。王の事蹟は不明であるが、神功皇后の三韓征伐の折にはお伴をされ、皇后とともに当地にも巡回されたのではなかろうか。野波神社の由緒に皇后巡幸のことが記されているのでこのような推察もできるのである。 第3の祭神、神代勝利については歴史篇に詳しいのでここでは省略するが、仁徳そなわる武将であったので祭神として仰がれることに何の不思議もない。 中鶴部落の具座村から井手野村にかけては、現在でも地域の守護神として年々祭祀が営まれている。
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廣瀬神社
社号 廣瀬大明神 祭神 若宇迦及売命・天照大神 豊受大神 室町時代の天文3年(1534)に創建され、大和の廣瀬大忌神社の祭神若宇迦及売命を主神として天照大神・豊受大神を勧請併祀した神社である。 主祭神の若宇迦及売命は農耕生活の守護神とされ、大和廣瀬神社の大忌祭は災害をしずめて豊作を祈る祭として古くから有名である。併祀した天照大神は太陽神、豊受大神は食物神で田の神とされている。 これらの神々を勧請した郷民は、天候の平穏と豊作を祈念して年々祭祀を営み、農作の護り神として尊信してきたのである。 近代になって、明治43年(1910)5月、神社の整理統合が実施され、祭神は杉神社に合祀されることになり、廣瀬神社は廃社となった。当時の人々はこれを「寄せ宮」とよんだ。 その後、社殿も山中地蔵尊の堂宇が焼失したためそこにゆずり、鳥居と敷地ならびに石祠だけが残されていたが、二次大戦後、神社法人のもとに復社することができるようになったので、廃社してから満50年目の昭和35年(1960)5月1日、廣瀬部落氏子一同によってもとの地に社殿を新築落成し、杉神社に合祀されていた3柱の祭神を新殿に迎え入れて奉斎し、廣瀬神社を再興したのである。なお、葉山神社の石祠もこの時同社境内に合祀した。
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七郎神社
社号 七郎大明神 祭神 少名彦命・神代勝利 神社由緒調の鳥巣山七郎神社々伝には鎌倉時代の嘉禄2年(1226)に創建されたと次のように記されている。 祭神 神代勝俊、或ハ井手野七郎卜云フ第六十六代堀河天皇嘉禄二年丙戌四月上旬藤瀬左馬助卜云フ人創建シテ平松村ノ氏神トス 祭神 神代勝俊とあるのは神代勝利のことであろう。勝利はその当時まだ生れていないので、神社明細帳にある祭神少名彦命を祀ったのが正しいと考えられ、神代勝利を合祀したのは室町時代の末期少なくとも勝利の死後のことであろう。 井手野七郎については、後代まで神として祀られている以上、何らかの口碑伝説が残されていなければならないが、村を治めた有力者であったかも知れないというだけで、歴史的な記録や伝説は何一つ残っていない。 七郎神という社号はこの地方に多く、三瀬村内にも柳瀬玉里七郎神をはじめ岸高、軽井谷七郎神・杠、田宇曽七郎神・宿七郎神・薙野七郎神などがあり、大和町旧松梅村や脊振村西北部、富士町旧北山村川上川上流地域の谷々などの小部落に点々と二十数社も祀られていて、祭神は少名彦命・椎足彦天皇・椎武王・十城別王・志々岐神・新田義貞など様々で一定せず、七郎明神そのものを祭神としているのは脊振村鹿路地域の5社だけである。共通することは、どこの郷民も古くからこの神社を「七郎さん」という親しみのある名で呼んでいることである。七郎明神とはどのような神であろうかと文献をさがしてみても、このような固有の名前をもった神は発見することができない。この神を祀ってある地域は、小城から旧神代領の北山々内に限られていて、これらの地域特有の神である。 以上のことから考えると、「七郎さん」というのは部落の守護神の代名詞のようにもうけとられる。 ただ、山内では「七郎さん」は神功皇后の三韓征伐にお伴をした人であるという漠然とした伝説も残っている。七郎神社の祭神に稚武王や十城別王が多くみられるが、この両王は日本武尊の御子で、仲哀天皇の弟、神功皇后とは義姉弟の間柄である。三韓征伐の時には当然行動をともにされたと考えられ、また、三瀬地区に伝えられる神功皇后の山内巡幸は、遠征のための兵員補充が目的であったかも知れないし、「七郎さん」も個人名ではなく、谷々の各集落から七名ずつの若者(郎)が応召し、椎武王や十城別王の配下に入ってはたらいたので、後代になって各部落毎に護国の神・部落の守り神として祀られたのではないかとも考えられる。 祭神の少名彦命。神代勝利については、玉里神社の項で述べたとおりである。 なお、鳥巣七郎神社には石の狛犬が一対奉献されていて裏面に藤瀬左馬助の名が刻まれている。また、拝殿の鰐口の銘には (表)神埼郡ノ内平松山奉掛七郎大明神 藤原朝臣景光 源右衛門 (裏)寛文九巳酉天二月吉日 と刻まれている。寛文9年(1669)といえば、山内は鍋島氏の支配下になっていた。 この神社は一時荒廃していたが、昭和45年10月、部落氏子によって総桧造りの新しい社殿が建立された。
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若宮神社
社号 若宮大明神 祭神 應神天皇・神功皇后 大雀命・源 義経 寿永4年(1185)3月24日、安徳天皇を奉じた平氏の一党は、長門国壇ノ浦の合戦に源氏のために惨敗を喫し、その残党は離散して北肥山内にも潜入した。鎌倉将軍は追捕使を各地に差向けたが、三瀬の山里にも平氏追捕のために差向けられた源氏の武士が、当領をあずかって統治するようになった。 それらの氏族は、源氏の守護神鶴ヶ岡八幡宮の分霊を勧請し、松尾村の裏側(西北面、陣内の対面)に神社を建立して宗社と定め、社号を若宮大明神と号した。 その後、地域の宗社として年々祭祀を営んだが、里人は武の神・育児の神と仰ぎ、祈願をこめるものも多かった。 降って、寛延3年(1750)正月、社殿老朽のため松尾村講中で宝殿拝殿を再建した。そのとき奉献した鰐口の銘は次のように刻まれている。 春掛 若宮大明神御宝前 寛延三庚午年正月吉日 神埼郡下杠山松尾村講中 それから78年後、文政11年(1828)8月、台風のため社殿が崩壊したので、天保2年(1831)12月吉日、敷地を現観音堂前に移して再建された。 近代になって明治43年11月、命によって神社の整理統合、いわゆる「寄せ宮」が行なわれ、祭神は野波神社に合祀された。それ以後50有余年を経て昭和36年12月10日、国道沿いの現地に社殿を新築し、4柱の祭神を奉迎して、若宮神社を復興した。 祭神の応神天皇とその生母神功皇后は、古くから八幡宮の主祭神八幡大菩薩と大帯姫命に擬せられた方々である。大雀命は大鷦鷯命ともかき応神天皇の御子仁徳天皇である。源 義経は源氏の若い御曹子。こうしてみれば、若宮大明神は八幡大菩薩の配下に御子神と若曹子の御霊を祭りこめたいわゆる若宮八幡ともいうべき神社である。里人が古くから武の神・育児の神として世々尊崇してきたいわれもこれではっきりするのである。
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乙宮神社
社号 乙宮権現 祭神 大雀命・菟道椎郎子 室町時代の嘉吉2年(1442)に阿波国の住人杠日向守が、淡路国の弓絃葉権現を奉供してこの地に来着し、一門の氏神として乙宮権現を祀ったのがこの神社の起源である。杠氏はこの地一帯の領主となり、地名を杠と改めるとともに、野波神社にも祭田五町歩を寄進して祭祀を盛んにした。 祭神の大雀命と菟道稚郎子は御兄弟で応神天皇の御子である。大雀命は後の仁徳天皇。菟道稚郎子は阿直岐・王仁に典籍(書籍)を学んだ。天皇に深く愛されて皇太子となったが、天皇の死後、兄大雀命と皇位を譲り合い、空位3年にも及んだため、自ら生命を断って皇位を兄に譲った。 杠日向守はどのような考えでこの2皇子を祭神としたのかわかるすべはないが、奉供して来た「ゆずりは」権現といい、神に祭った2皇子の皇位の「ゆずりあい」といい、何れも日向守の姓「ゆずりは」と同音または近い音詞であることに注目したい。そして、兄弟仲よく、兄は親の命に従い、弟は兄を尊敬する、ということは、戦国乱世に生きた日向守にとっては、一家一族和合の美徳と感じられたにちがいない。日向守はこのご兄弟皇子を一族一門の鑑とするため氏神として祀ったののであろう。
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勝玉神社
社号 勝玉大明神 祭神 神代勝利、合祀・宿七郎神 明治8年(1875)4月、城山三瀬城趾に石祠を建立して、旧領主神代勝利を祭神として祀り、勝玉大明神と号したのが、この神社の起源である。社号は観音禅寺住職大輪和尚の書になるという。 古老の口碑によればこの石祠建立のときには、その運搬のために山内山外の旧神代氏領一円から多数の人々が積極的に参加協力したといわれ、往時の勇将神代勝利の仁徳が如何に偉大であったかがうかがわれたという。 その後、明治23年(1890)4月7日、宿部落民一同によって、城山の麓の登りロに勝玉大明神の社殿を新築落成して神代勝利の霊を迎えて祀り、宿七郎神を合配した。