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[神社仏閣][神社][鍋島校区]は6件登録されています。
神社仏閣 神社 鍋島校区
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蛎久天満宮
後冷泉天皇の天喜2年(1054)太宰府天満宮から御分霊を勧請し、奉祀して文教の祖神、誠の神として氏子発展の産土神として村民の崇敬を集め今日に至っている。 なお天満宮は太宰府天満宮、水田天満宮と共に鎮西三大天満宮といわれていたが、元亀元年(1570)大友の乱で焼失してしまい、元亀4年(1573)に龍造寺隆信が社殿を造営し龍造寺代々の信仰があつく、また鍋島氏となってからも初代勝茂、二代光茂、三代綱茂などの信仰が深く、神殿、拝殿、付属建物も造営された。 天喜2年本社創建にあたっては、菅家の子孫中願寺、岩松両氏が社職に任ぜられた。当時は17ヶ所の末社を有し、神領は二百余町に及び、権勢は地方に冠たるものがあった。 そして同社に祀った神像は水鑑の一軸で、道真公生存中池水に影を映して自ら写したものであった。なお本社は明治4年村社に列せられ、明治中頃までは春秋2回の祭典(3月25日、11月25日)には門前、東西に休憩所を設け、一の鳥居までは両側に売店や見世物小屋が並び、参詣人織るように多く盛況であったという。
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新庄八幡神社
応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、比賣大神、春日大明神の五柱を奉祀してある。また安徳天皇養和元年(1181)には宇佐八幡宮の分霊を勧請したから、五社八幡宮とも言った。古く文応、弘長の頃最明寺時頼巡回の際当地で不慮の病いにかかり重体となり当社に祈願をこめた。不思議にも忽ち平癒したので神殿を再興された。降って天正の頃龍造寺氏も信仰が厚かったが、弘治、永禄の頃大友軍が佐賀に侵入し社殿は焼却された。次に鍋島直茂も厚く信仰し、元亀元年(1570)の今山夜襲戦にも近くの勝楽寺にて旗竿準備の上、本社に奉拝して勝利を祈願し、本社の梵鐘を陣鐘に使用し大勝利を得たので一層信仰が深くなり、又、文禄の役でも直茂出陣にあたり今山戦に倣って社参祈願し、凱旋後慶長4年(1599)1月18日本願成就のため梅崎一党をして御能を奉納した。其後代々の藩主も例大祭には名代を社参せしめ、御賽物奉納の上、神事御能を厳かに執行したが、これは明治3年廃止された。
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勝軍稲荷神社
神社の創立については、現存している記録から確かな由来はわからないが、「敷地山権現社由緒並びに抱宮差出し帳」の記録から推測すると、鎌倉後期の頃(今から700年ほど前)に建立されたものと思われる。 祭神は、豊受比売神(とゆけひめのかみ)勝軍稲荷大明神、英彦山権現、観世音、鬼子母神。「勝軍」の名にあやかって、戦争の激しかった時代には、各地から武運長久を祈って参拝者も多かったという。 なお、戦国時代、今山の戦(1570-大友軍と鍋島軍が大和の今山で戦う)の際に、鍋島軍が鍋島村森田の勝楽寺、勝軍稲荷神社、新庄八幡神社に戦勝祈願の後今山戦で大友軍を打破ったと伝えられている。
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乙護法神社
建立は定かでないが、先年450年祭をされたことから推測すると、1550年代龍造寺隆信の時代ではないかと思われる。 祭神は猿田彦とされている。 地元森田では、春秋の祭りの他、3月には百手祭(ももてまつり)が今も行われている。百手祭りとは、的射りともいい、自家竹製の弓矢で的を射って、作物の豊凶等を占う行事である。鍋島町内では他に岸川地区で行われている。
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津留天満宮
昭和28年(1953)の大水害により、津留天満宮の社殿は流失したため、鳥居だけが1m位の土砂に埋まり、昭和28年の水害の面影を残していた。 そこで、津留地区民の総意によって鎮西三大天満宮と称えられる蛎久天満宮の御分霊を頂き、念願の御社が天皇陛下御在位20年の記念事業として、また区民の浄財の寄進によって、平成21年(2009)3月に成導寺八幡宮の東に建立された。 春祭や秋祭を斎行し、津留地区の繁栄を祈念している。
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角目の天神さん
230年以上前に佐賀藩が作成した、天明絵図「新庄郷植木新村」分間絵図によれば、角目の天神さんの所在地が記載されている。いつの時代から角目に天神さんが祭祀されたかは定かではない。 古老たちの話によると、明治初期の神社仏閣の整理統合がなされたときに、角目の天神さんは廃神されその使命は終わったと言われている。 しかし館は存続し、大正時代の始めの頃までは天神さんと親しみを込めて呼ばれていたという。 昭和28年の未曾有の大水害によりこの館は倒壊したため、翌29年に地区民の浄財により新しい館が建立された。天神さんとしての面影はないものの、新しい館は青年倶楽部、角目公民館と移り変わり、地区住民の心のよりどころとして新たな使命を果たしつつある。