検索結果 RESULT
[神社仏閣][寺][日新校区]は19件登録されています。
神社仏閣 寺 日新校区
-
大覚寺(浄土宗)
門前町の中ほどにある大覚寺には、佐賀市の重要文化財である、法然上人の「末代念仏授手印(まつだいねんぶつじゅしゅいん)」と、1606年(慶長11年)天王寺絵師・宅間法眼筆の「山越しの阿弥陀如来像」の見事な仏画があります。 この寺には、幕末の勤皇の志士、中野方蔵、佐賀戦争で活躍した木原隆忠の墓があります。
-
蓮生寺(浄土真宗)
1597年(慶長2年)で開基は釈行善(高木宗太夫)。 宗太夫は大和町尼寺の出身で、高木肥前守と称して、鍋島藩の重臣であったとも伝わっています。ここは佐賀の鎧師であった宮田貞俊一門の墓碑があります。
-
大運寺(浄土宗)
1610年(慶長15年)寂譽無人上人(じゃくよ)が岸川町に建立した浄土宗のお寺です。
-
本願院(真言宗)
全国の大名の菩提寺が高野山にありますが、その中の鍋島坊本願院の肥前における別院として、明治の初めごろできたということです。 春、秋の彼岸には小城、佐賀、神埼、三養基を四国に見立てて88ヶ所巡りが行われますが、そのときは、肥前宗務支所となります。本堂は方(宝)形造りになっています。
-
妙覚寺(日蓮宗)
正式には竹原山妙覚寺といいます。1424年(応永31年)に日蓮上人の弟子「日親」が開山した寺院です。 日親は17歳で小城の松尾山光勝寺(九州探題(たんだい)千葉胤貞(たねさだ)建立、現日蓮宗九州総本山)の貫主となりましたが、小城の竹原にも説教所を設け、それが後の妙覚寺となります。さらに1791年(寛政3年)佐賀の伊勢町に堂宇(どうう)を移されました。 日親は、間もなく鎌倉に戻り、将軍足利義政から念仏宗への転派を強制されましたが、聞き入れなかったため迫害されました。同寺には日親の分骨もあります。
-
真覚寺(浄土真宗)
真覚寺は、純粋社(じゅんすいしゃ)塾跡と隣り合わせにあります。山門軒下に「刀匠初代肥前国忠吉(ひぜんのくにただよし)公之墓」と記した市指定史跡碑が立っています。名刀でうならせた肥前刀忠吉の2代から9代までの墓は八戸2丁目の長安寺にありますが、初代忠吉の墓のみがこの寺にあります。 また、この寺入口にある鐘楼(しょうろう)は、佐賀市の重要文化財に指定されています。
-
天徳寺(臨済宗南禅寺派)
天徳寺は、北面天満宮の御本地十一面観世音菩薩、不動明王、毘沙門天の三尊像を祀るために建立されたお寺です。北面天満宮と同じころ、蛎久より移されたもので、佐賀のわらべ歌にも歌われた古寺です。 墓地には、幕末シーボルトについて学んだ佐賀藩蘭学者大庭雪斎の墓があります。雪斎は弘道館の教導をし、多くの蘭学書を訳し、1873年(明治6年)69歳で没しました。
-
妙安寺(曹洞宗)
鍋島の初代藩主勝茂は、龍造寺胤栄の遺子「妙安尼」の数奇な身の上に同情し、五千坪の土地を寄進して妙安寺を建立しました。創立年代は、はっきりしませんが、1600年(慶長5年)前後であろうといわれています。 1871年(明治4年)鍋島直大が、各地にある龍造寺、鍋島関係の墓を菩提寺の高伝寺に移しましたが、そのとき「妙安尼」の墓も移されました。
-
泰長院(臨済宗南禅寺派)
1536年(天文5年)龍造寺胤久によって建立されました。三代住職の是琢は、鍋島直茂に従って朝鮮の役に従軍し、武運の祈祷や朝鮮との文書による通訳の事務を担当しました。 現在、龍造寺隆信や鍋島直茂・勝茂らの書状、文禄・慶長の役における朝鮮側諸将から鍋島直茂への書状など県重要文化財12巻105通の文書が残っています。 この他、朝鮮の役、在陣中の是琢の日記も貴重な資料として残っています。また、ここに反射炉の築造で有名な杉谷雍助の墓もあります。
-
水月寺(曹洞宗)
慶長年間、鍋島直茂が坐禅堂として建立した寺院です。開山は、龍泰寺四代の天雪珠光和尚です。 境内には、『葉隠』の口述者、山本常朝の師である石田一鼎の墓や、司馬江漢などと交友の厚かった、山領梅山の墓もあります。 水月寺は、石田家累代の菩提寺ですが、一鼎は晩年、佐賀市大和町梅野字下田で暮らし、没したので、この地に埋葬され、遺髪を水月寺に葬ったものと思われます。
-
善定寺(浄土真宗)
1584年(天正12年)肥後阿蘇神社宮司、木山祐憲(ゆうけん)が島原の合戦で戦死した龍造寺隆信の菩堤を弔うために建立したお寺です。幕末、吉田松陰を動かした僧、「月性」は、同寺第八世の「不及」に深く帰依していたことで有名です。 ここには、1867年(慶応3年)、パリの万博を観覧しに行った、野中古水の記念碑があります。
-
本行寺(日蓮宗)
1510年(永正年間)頃、龍造寺胤家が開いた佐賀市最大の日蓮宗寺院です。 墓地には、治水事業の功労者、成富兵庫茂安と明治の元勳江藤新平の墓があります。 寺宝の毘沙門天立像は、佐賀市の重要文化財です。
-
天祐寺(曹洞宗)
龍造寺氏最後の主、駿河守高房の菩提を弔うため、1615年(元和元年)佐賀藩藩祖、鍋島直茂が建立した寺です。 藩政時代には、曹洞宗八ヶ寺の一つで、藩主といえども門前下乗の格式が与えられていました。また、佐賀城の支城として建立されただけに、寺内の規模も広大でした。明治4年、龍造寺、鍋島両家に縁故のある各寺の墓碑一切が高伝寺に集められたとき、高房の墓碑も移されました。昭和初年、改築整理されましたが、なお由緒ある寺としての風格をそなえています。 墓所には、今山大友陣の殊勲者の百武志摩守の塔や、佐賀が生んだ大学者で鍋島治茂公の侍講をつとめた石井鶴山の墓や田中儀右衛門の墓があります。
-
西念寺(浄土宗)
1590年(天正18年)創建の浄土宗寺院です。開山は惣誉上人で、もと武士階級の菩提寺であったということです。 幕末に閑叟公の側近として、長崎での対外交渉、兵器買い付けなどに活躍した伊東次兵衛の墓と碑があります。
-
泰教寺(日蓮宗)
開山は、日潤上人で、開基は有名な鋳物師、谷口清左衛門尉長光によって、佐賀藩における鎭西本山松尾山光勝寺の佐賀布教所として開かれました。 寛永年間には谷口清左衛門が佐賀城の鯱を鋳造し、1698年(元禄10年)には、谷口安左衛門が春日村の玉林寺に、肥前一の大梵鐘を鋳造しました。八戸の地蔵尊なども谷口一門の作でした。それらの技術が、この地に佐賀藩の洋式鋳砲をつくらせるきっかけとなったのです。谷口両家の歴代の墓は泰教寺にあります。 明治16年、子孫の谷口清八がこの地につくった谷口鉄工場は、西日本の大手工場の一つで、福岡市東公園にある、日蓮の銅像などもこの工場で作られましたが、昭和初年の金融恐慌で工場は倒産しました。
-
専修寺(浄土真宗本願寺派)
1594年(文禄3年)菊池肥後守が開基し、開山は、願心と伝わっています。現本堂は、1883年(明治16年)当時の商人、伊丹文右衛門が改築寄進しています。当寺には、伊丹一族の墓と「精煉方」で活躍した鋳砲技術者、中村奇輔の墓があります。 ※『佐賀県近世史料第十編三巻』p124によれば、開山は宗基、第二世が願心とあり。
-
龍雲寺(曹洞宗)
開山は、大用宗俊。1532年(天文元年)龍造寺家重が村中龍造寺家和の養子となった於保胤宗(後の八戸氏)の妻などを弔うために建立したということです。 「葉隠」の口述者、山本常朝は、1570年(元亀元年)に、龍造寺氏との争いで戦傷死した八戸宗暘の子孫です。常朝は、1719年(享保4年)に61歳で没しました。墓地には「旭山常朝菴主」と彫られた墓とその一族の墓があります。 常朝の墓の背後にある顕彰碑は、葉隠研究家の中村郁一が建立したものです。 また、ここには儒学研究の資料となる「多久安輝の墓誌」(佐賀市重要文化財)があります。 龍雲寺一帯は、室町時代八戸一帯に勢力を誇っていた豪族於保氏(のち八戸氏と改める)の居館跡である。 ※『佐賀県近世史料第十編第二巻』のp8「龍雲寺本末御除地并無縁地破壊地差出帳」の解題によれば、「龍雲寺はもと済家宗水上派に属す慶聚寺といい、天文元年(1532)大用和尚中興地で、八戸の地に移り、慶聚山龍雲寺と改める。開基は悦心妙慶大姉(功(剛)忠公姫)、開山を大用の先師奇伯和尚(長州太寧寺)とし、二世中興大用和尚とする。天文十六年まで住持を務める。」とあり。
-
地蔵院(曹洞宗)
地蔵院の朱塗りの山門をくぐると、地蔵院本堂前に1732年(享保17年)に建立された見事な地蔵菩薩が建っています。享保17年の飢饉で多くの餓死者がでたと伝えられており、その霊を慰めるために建てられたとみられます。 疲れた足を止め、合掌すると、何やら安らぎを感じるのは昔の旅人ばかりではないようです。
-
長安寺(浄土真宗本願寺派)
1578年(天正6年)浄因法師が開基したと伝わっています。ここには刀匠橋本新左衛門忠吉(肥前忠吉)の2代目から9代目までの墓があります。初代忠吉は現高木瀬町長瀬で生まれ、代々刀鍛冶を営み、佐賀藩主の御用職抱工となりました。3代までが代表作として高く評価されています。