相良 知安 | さがの歴史・文化お宝帳

相良 知安

所在地 佐賀市
登録ID 965

出典資料から記載

日本の医学をドイツ式に整え、現代日本医学の基礎を確立した功績者である。佐賀藩医の子として生まれ、長崎・精得館などに進み、帰国後、佐賀藩主鍋島直正の侍医となる。明治2年、鍋島直正に従い上京し、医学制度改革を命じられた。その後、従来の蘭英医学を廃し、日本はドイツ医学に依ることを主張し、その必要を説いた。
出典:ふるさと勧興(P.34)

出典資料から記載

天保7年(1836)2月16日~明治39年(1906)6月10日
医学者。日本にドイツ医学を導入した功績者。佐賀藩校弘道館から蘭学寮、佐賀藩医学校、そして江戸・佐倉の佐藤尚中の門に入り、蘭医学を励んだ。さらに文久3年(1863)、長崎精得館に進み、蘭医ボードインについて西洋医学を修得。選ばれて精得館長となった。ボードインの帰国の際、知安は彼から留学を所望されたが、父の病気のために佐賀に帰り、藩主鍋島直正の侍医となった。明治2年(1869)、新政府から「医学校創立につき尽力せよ」との通知があった。このとき、知安と同学の岩佐純は新日本医学にはドイツ医学こそ最適と信じていた。しかし、新政府側では戊辰戦線の軍陣衛生の功労者ウイリスへの恩義から英医学導入の声が強かった。こうして知安らのドイツ派とウイリスのイギリス派の正面衝突となったが、知安の奔走により、ついにドイツ軍医二人を大学東高(現東京大学医学部)教師として招くことになった。これにより日本医学は蘭医学からドイツ医学に転じることになる。明治3年(1870)9月知安は突然、弾正台(取締機関)に逮捕、投獄され、明治5年(1872)釈放。同年10月文部五等出仕第一大学医学校長として復活したが、在職2年にして辞職。明治18年(1885)文部省御用掛の職を去り、71歳で病没。                 <鍵山 栄 執筆>
出典:佐賀県大百科事典(P372)

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