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[建造物][橋・井樋等][循誘校区]は44件登録されています。
建造物 橋・井樋等 循誘校区
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中林橋
大財の仏心寺を東に突き当たったところの橋で、生長の家西にあたる。この橋は昔大財の日産自動車から東の大財公園にいたる道がなかった頃、かつて愛敬島の国相寺前から東の精金寺前を通り大財通りを横切り、仏心寺の南からこの橋にいたり、火葬場に至っていた旧道であった。木橋で橋幅も2.3米程度であったが、近年改築し見違えるようになった。
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天神橋
願正寺の東南に天神橋がある。この橋から南に入る小さな路地があり、この路地を昔は、『新堀端』と呼んでいた。 かつて関ヶ原の戦いに西軍に組みしていた鍋島藩は、伏見城を攻め下して、伊勢の阿濃津城を攻撃中西軍の敗戦を知り、進退に窮してしまった。このとき、徳川家康公の側近で顧問の地位にあった小城の元佶長老と、西本願寺の准如上人がとりなしにつとめたので、鍋島藩の危機存亡を脱することができたのである。この恩に報いるため小城に『三岳寺』を、西本願寺のために『願正寺』を建立した。 この願正寺に創建後寺領を与え、また、これまでの真宗寺を西本願寺派の願正寺に所属するようお触れを出した折り、それに従わなかった他派の人々がいて、首謀者が捕らわれ鎮静し、やがて捕らわれていた首謀者も許されたが、その罪を償う意味で、この『新堀』を掘らされたものである。願正寺では、鍋島家のためよく勤めた。例えば寛永2年千栗の堤防が決壊したとき、願正寺は国内の門徒を集め、天建寺前の360間を修復した。費用もまた門徒で賄ったので、これを御馳走土井といった。
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高木橋
大財町通りの『井手酒屋』北から循誘小学校前に流れている。
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高木中橋
循誘小学校の校門前に架かる橋でこの橋の南には、『循誘橋』や『記念橋』があり、循誘小学校が創立50周年を記念して、この通学道路ができたと云われている。
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地蔵橋
高木中橋の東に位置する橋である。
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高木橋
地蔵橋の東に位置しこの橋の東方で、南北に分かれ北は牛島天満宮に至り、南は東佐賀町に至る。樟脳小屋橋や桜団地入り口の桜橋、そして循誘公民館西から牛島町北を経て長専寺の横、構口橋北から大溝都市下水路に至っている。
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牛島天満宮の太鼓橋
天満宮西の鳥居側に天満橋があるがこの橋は、願正寺の東で呉服町水路から分かれた循誘川に架かっている。この天満橋の南に高木橋があり、北には十間堀川の清心橋がある。 牛島天満宮の太鼓橋は、宝暦8年与賀神社、堀江神社、八坂神社に次ぐ古い橋である。この橋については別の眼鏡橋で詳しく掲載しているので参照していただきたい。
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芦町橋
芦町橋は芦町水路に架けられているが、この橋を通っている川副佐賀停車場線(大財通り)は近年交通量も著しく増加して、漸次道路拡張工事が継続されているがまだまだである。 この交通混雑を解消するために、大財通りの拡幅工事は勿論のこと、兵庫町に佐賀市東部環状線を新設して、南部バイパスと北部バイパスの両道路を結ぶ新道路工事が進んでいる。 また、これに合わせて元江里口酒屋から東の兵庫町に向かって同じく新道路建設が進んでいて、大財六丁目の東(社会保険病院南付近)で前記東部環状線と交差するようになっている。
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循誘橋
循誘小学校の50周年記念事業として、小学校の校門から馬責馬場東まで通学が便利になるために、道路が新設されたが、そのとき『記念橋』と同様大正14年(1925)に建設された。また、50周年記念事業の記念品として生徒に橋の文鎮が配られた。
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北御堂橋
元江里口酒屋四角から50米位東に『北御堂橋』の新しい橋が完成している。この橋の南に元の『御堂橋』がある。
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御堂橋
もとは天神橋と云っていた。仏心寺の北西に地蔵尊を祀った小さな御堂がある。地蔵尊の名は、災難除地蔵尊と記載されている。よくここで子どもが溺死していたので、堀を調べてみたら地蔵尊が沈んでいたので、これを引き上げ御堂を建て地蔵尊をお祀りしたので、その後は災難はなくなったとのことである。
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竜頭橋
云い伝えによれば、昔ここから龍が立ちのぼったので、タツガシラ橋と云われているとのことである。龍は、竜神となって天に上り雲を呼び雨を呼ぶとの話があり、水神に通じているのでこの話は、旱魃雨乞い祈願の効果があったのではないだろうか。
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大財新橋
トヨタ自動車東に架かる橋で、大財本通りより東の大溝川の大溝橋に至る間の新道路建設に際して架橋されたものではないだろうか。昔の道路は、元水町ゴム北側から入り仏心寺の南を通り成長の家の南『中林橋』に至っていた。
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榎橋
(昭55・3)もとの橋は(昭6・7)水ヶ江二、材木二。 橋の西方、会所小路に大隈重信の生家と記念館がある。どの橋からも小路に入るには少し曲がりをつけ死角にしてある。これも佐賀城下町づくりの特徴である。橋の東北隅にお稲荷さんを祀る祠がある。中に「正一位榎森稲荷五社大明神」石造のご神体が安置され、側面に「慶応二年丙寅冬十一年吉日奉再建」(1866)の銘。昔、橋の東南に大きな榎が繁っており、社もそこにあった。榎橋から東への道路拡張で邪魔になるお稲荷さんを牛島天満宮へ返そうという町内(17班)の意見、橋近くに住む中山さんの夢に、お稲荷さんが牛島天満宮に帰りたくないと。そこで橋の北側に社を移すことにしたということである。 稲荷さんは祭りは正月、5月、7月、9月のそれぞれ8日で、材木町17班で行う。昔は夏祭りの祇園は盛大で、水上舞台ができ、町内の人だけでなく踊り手や商売人も見え、佐賀ニワカの田代熊一一座は人気があった。「じろりの六日恵比須」「榎の八日稲荷」「中の橋の十日恵比須」といって昔は材木町の各班で豪華さを競いあっていた。昔の榎橋は反橋(太鼓橋)になり、橋下を自由に船が往来できるようにしてあった。