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[物語・いわれ][地名・とおり名][嘉瀬校区]は6件登録されています。
物語・いわれ 地名・とおり名 嘉瀬校区
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長崎街道と嘉瀬
近世になって嘉瀬が史上脚光を浴びるようになったのは、何と言っても嘉瀬が、村の中央を東西に貫く長崎街道の重要な位置にあったからである。長崎街道は、鎖国時代日本唯一の貿易港長崎に通じる日本幹線道路であった。江戸時代全国の幹線道路は、五街道・八脇街道であった。長崎街道は山陽道に直結する九州唯一の脇街道(脇往還)であった。オランダ商館員ケンペル(1690〜92滞在)や、シーボルト(1823〜28・再来59〜62)も、この街道を通って江戸参府を行っている。 この街道筋で栄えたのは、本庄川の河港高橋宿で、下流の厘外・今津・相応津と共に用船の寄港地として繁栄した。天草・八代方面からの川船の出入が多く、バラス・木炭・薪・カライモなどを運んできた。入船は多いとき日に14,5隻もあった。その時は市が立ち近隣からの買い物客で賑わっていた。宿場には呉服屋・米屋・料理屋が軒を並べ、西の今宿といわれたという。それに続く扇町は、有名な鍋島緞通の生産地で、扇町出身の古賀清右衛門を元祖とする「扇町毛氈」として有名になった。藩の幕府への献上品にもなっていた。また明治維新に職を失った士族救済の為の士族授産として技術指導が行われたという。 嘉瀬川の嘉瀬津は、河港として中世末から江戸時代を通じて長崎街道の宿場町として栄えていた。嘉瀬上町・嘉瀬下町に分かれていた。藩は、ここに「津方」を置いて、港としてまた宿場町としての商業取引一切を管理していた。特産品として、鍋・釜・障子・襖等があった。本来、農業生産地嘉瀬も、長崎街道筋では交通商取引の盛んな宿場町として賑わっていた。
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千本松のはなし
嘉瀬川河川敷にあるバルーン会場の本部席あたりを千本松と言った。その千本松は、松林で荻野地区が海岸だった頃、有明海の潮風による塩害防止のため松の木が植えられ、松林は川上まで連なっていた。後に、成富兵庫茂安の指示で、松林は伐採され、代りに竹林が堤防に造成された。今は、堤防の竹林は、嘉瀬川改修工事のため消滅した。
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「かせ津の地質上の誕生」
北に連なる脊振山地は約1億年前、地下の深所で生成した火成岩が地殻変動により隆起し山地を形成したものと考えられている。 佐賀平野は、1万年前頃嘉瀬川などが山地を侵食して大量の土砂を運搬し、有明海の潮汐作用と相まった沖積平野である。 約5千年前(縄文時代)満潮位の線は、金立・高木瀬・森田・四条・生立ケ里を結ぶ線。 約2千年前(弥生時代)JR長崎本線が陸地の南限。 陸地化のスピードは百年で、川副1kmへ東与賀0.5km、久保田0.35km 、嘉瀬ごくわずか。 600年前嘉瀬中原、300年前嘉瀬新町、150年前嘉瀬新地籠造成誕生。 720年前の元冦以後干潟荒野が干拓の対象となる。荒野とは葦原のことだが、嘉瀬津にあちこち葦の立っている堀や凹地が見られる。かせ津は、有明海の凹地でもあり潮の満干を利用したよい船着き場であった。
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「嘉瀬津住民の流れ」
嘉瀬津は、昔、戦国期に海氏・平氏・源氏の所領であったり、武雄・多久・小城藩主の領地にもなったり、江戸期には鍋島藩主から久保田領主の領地になる。今の大字荻野は、昔は荻野村で嘉瀬川の西にある集落だった。 嘉瀬津は嘉瀬川の河港として船舶の出入り多く有明海の七つの津の代官所があった。 嘉瀬津の河港は、年貢米の集積また積出しの為、馬車利用の運送者や生活用品の製造販売者、技術者として鋳物製造・井戸堀り・酒造・寺や民家の建築士・石や・菓子製造者等、商店では呉服・小間物・日用雑貨店等の店が立ち並び、千人からの住民が住んでいた。 十を数えた寺も、現在八寺あるが、鍋島藩主の許可で、殆どが外の地区からの持ち込み寺である。河港の機能が無くなるや久保田領主は、寺は残して、住民を主に久保田の土地に移住させた。 その後の嘉瀬津は、主に住宅地になる。
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「佐賀の名のおこり」
「肥前風土記」は景行天皇・日本武尊の巡幸説話でその中から。九州全域の行政は筑紫大宰。肥前の国府は大和町久池井附近。国府の下組織に郡があって賢女郡があった。賢女郡がなまって佐嘉郡になったと思われる。賢女についてだが、反抗的な土蜘蛛に人形・馬形をつくり、国王の大荒田が占ないをしたら従順になった。この土地を賢女郡となすとある。「日本霊異記」777年奈良時代の説話集で、それには肥前国佐嘉郡(さかのこおり)とある。佐賀と言う地名は日本にあちこちにあるが、アイヌ語で「サガ」とは浜辺の土地を言うとある。平野自然造成の源は川上川であるが、弥生時代の後期(2.000年前)と思われる国主大荒田も国主卑弥呼と同じく、世俗的な権力と宗教的な権威とを兼ね備えて君臨したと思われる。
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倉屋敷
藩政時代に多久家(小城藩との説もある)より鍋島藩に嫁入りされた時に荻野に倉を建てたとされている。乙護神社の東の地区を以前より倉屋敷と呼んでいた。北島線の道路工事時に跡地と思われる遺跡が出たとの話もある。 また、嘉瀬川沿の、現魚市場より南に「遠の江」の地名(字名)が有り現在も使っている。この地は嫁入りの際に持参された土地で、現在でも小城市(三日月町)に、この行政区名がある。又この地は「化粧田」とも呼ばれていた