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物語・いわれ 物語・四方山話 巨勢校区
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巨勢大明神のお告げ
永禄9年、豊後国の大友入道宗麟が大軍を起こし、佐賀に攻め寄せた。元亀元年再び大軍を進め、その勇壮な進撃には佐嘉城はちょうど風前の燈のようであった。この戦いに鍋島信生公は命をかけられ長刀を揮い、巨勢大明神を拝し祈願をこめられると不思議にも快勝した。 その日、すなわち4月22日巨勢の宮に野営されたが、その事がただちに敵方に知れ、敵は夜討ちを企てようと忍びを入れた。ところが敵の眼には巨勢大明神のお加護で「佐嘉城より高尾口まで松明幾千万本とも知れず、その間を城兵はぐんぐんと繰り出している」のが見えたので夜討ちをついに中止した。実は佐嘉城からは一人の援兵もなく、また屯兵は昼の疲れで宵には厳重な用心にもかかわらず、みな具足を枕に寝てしまっていたらしい。 ついで、8月18日夜深更龍造寺隆信公が巨勢大明神の前を通過されると「敵は北山にあり、夜討ちして利あるべし」と、お告げがあった。その通りにしたら敵の総大将八郎親貞は討たれ、さしもの強敵旭日昇天の豊後勢も完全に潰滅してしまった。巨勢大明神のご利生に人みな驚くばかりであった(『肥陽古跡記』『神社調』巻末記載)。
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修理田の「佐馬屋敷」
修理田1330番地、現在の修理田橋を川沿いに北に約300m上った所に、昔、佐馬守という豪士が住んでいた。いざ事ある時のための軍資金とするため、金の釜を作り屋敷下に埋めた。しかし、とうとう使用する機会がなく現在に至ったと伝えられる。 その屋敷は今は跡形もなく、水田となっているが、明治30年ごろ原要蔵という人が掘ってみたが発見されなかった。
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鬼喰さんの岩
昔、柳原に鬼喰さんという人が住んでいた。京に上って大相撲に入ったが直ちに先輩を抜いて大関になった。あまり出世が早いので妬まれ、毒殺を企てられた。そこで故郷に帰り農事の傍ら当時流行の宮相撲に出場していたが、いつも勝ちっ放しであった。こんなことから、勝ちっ放しのことを「オニキイさんの相撲」と言われるようになった。 ある日のこと、今日もまた相撲に出場しようと思い、秋の取り入れ時の事とて暗い中に飛び起き稲刈りに出た。ところがあまり急いだのでヤレギ(注)を鎌と間違えて、せっせと稲を刈り、東天ほのぼのと白んで初めてヤレギであったことに気付いた。その後は一株も切れなかったとの事である。 この大力士が毎日の日課に力試しをしていた力石がすなわち「鬼喰さんの岩」で、今では薮の中に、苔むして傾きかけた柳原天満宮のかたほとりに笹に埋もれて倒れている。 (注:ヤレギとは牛につける曲った棒ぎれ)
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巨勢郷では粟は作らない
巨勢郷開拓の祖は巨勢大連であるが、現在の巨勢町内には住んでいない。実際に巨勢町内に家屋を構え住んだ人は立川阿波守が最初である。阿波守は第93代花園天皇の延慶年間に鎌倉の今泉村から下向し、今の下新村に住んだ。巨勢大明神を瓦町の老松明神の森から現在地に移し祀ったのも阿波守で、住民の面倒をよくみた。ところが、ある日のこと、この阿波守が領内巡視の際ふとしたはずみで粟のとげで目をついて苦しまれた。それで巨勢の住民は大変にはばかって、その後は粟を作らないようにしたといわれる。
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高尾繩手の敵討三人入り乱れての大活劇
寛永19年3月、高尾繩手で稚児のことから三角関係となり、訴訟による前代未聞の果し合いがあった。ちょうどそのころ藩主勝茂公は在府中でお留守、三男甲斐守直澄公がお係りでお裁きになり「双方果し合いをなし一人でも助太刀は相成らぬ。もしそんなことをすれば仕置にする」と申し渡しがあった。 「親兄弟の敵討ならまだしも、衆道の恋の果し合いとは何という珍しいことか」と、遠近から見物が押し寄せた。やがて双方から中央に進み出て、それぞれ作法を終って「イザ」とばかり立ちあがり切り結ぶ。群がる見物はひとしく我を忘れ片唾を呑んで手に汗を握り勝負いかんと目をみはる。やや久しく火花を散らして戦ううち、大野はついに敵の鋭い刀先を受け損じて高股を打ち落とされ、「アッ」と一声悲鳴をあげてその場に打ち倒れた。勢いに乗じて鍛治は今一撃と打ちおろさんとする一刹那、竹垣を押し破って、矢玉のように飛び込んだ一人の若者、「ウヌー、兄の敵覚悟せいー」と声掛け、鍛治の後からけさがけに一刀のもとに斬り伏せ、そのままいずこともなく姿を晦ました。 これこそ大野が弟千兵衛という者で、兄の敵を討ったのである。 瞬く間のこの二つの出来事に見物は呆気にとられ、ただワッワッと、どよめくばかり恋の果し合い−。兄の敵討−。」一時にそうしたことが起こるとは、これこそ珍中の珍事であった。千兵衛は勝茂公ご下国により「目の前に兄が切られ我が命が惜しいとて見て帰られるものか」と、助命になった。 彼は後、お鷹師となり勝茂公に仕え、逝去の際追腹を切ったと伝えられる。(『肥前夜話』による)