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[民俗・芸能][その他][東与賀町]は7件登録されています。
民俗・芸能 その他 東与賀町
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荒神
かつては、どこの家庭でも庭中の奥の釜屋にヘッチィ(かまど、くど)が座っていた。ウーベッチィ・ナカガマ・キーベッチィなどと大量の煮たきをする大釜から茶沸かしやおかずの煮たきに用いる大小のかまどが、4連ほどあった。 「へ」は煮たきの道具で「へつ火」が訛ってヘッツィ(ヘッチィ)となったといわれ、火の神をさすことばともなっている。物を煮たきする火所は食生活の要をおさえている神聖な所であるから、そこが火を統轄する火の神の鎮座する場となったと考えられる。 火の神を荒神というのは修験道や陰陽道で説かれている三宝荒神と混同されたものであろうとされており、三宝荒神は仏・法・僧の三宝を守る荒神であるといわれ、不浄を嫌うため家の中で最も清浄とされるヘッチィの中に居るとされる。 ウーベッチィ(大釜)のそばの柱に小さな祠を荒神さんとして祀ったり、ウーベッチィをウーコージンさんともいうようにウーベッチィそのものを荒神としているところもある。 不浄を嫌うところから刃物をのせることを忌み、正月前には座頭さんによるススハリャー(荒神祓い)が行われた。1月9日には、子ども達が荒神相撲をしヘッチィ餅を食べた。 ヘッチィ餅を未婚者が食べると縁遠くなるという伝承もある。 遠くへ出かけるときに「ヘッチィさんのおヘグロ戴き」といって、ヘグロ(スス)を額に塗りつけて道中の無事を祈った。これは荒神の持つ激しい験力に期待するものであった。 火の神としての荒神は、また、農耕の豊穣をまもる農神としての性格もあわせもっており、田植えはじめの「田の神さん祭り」に3把の早苗を供えて豊作を祈願した。
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サギャアシ
竹馬のことを佐賀では「サギャアシ」といった。鷺足が語源であろうといわれている。節のそろった真竹に横木を工夫してつける。高さを競い家のひさしに届くようなものを作った。 片方の馬を肩に担いでするケンケンの芸当もある。
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ネンポウ
雑木(ビャーラ)の束から適当な木を選んで先端をとがらして作る。 田んぼなど適度に乾いた土のうえで順番をきめ負けたものが先にネンポウを地面に打ち込み、順に相手の棒を狙って地面に打ち込んで倒せば自分のものとなった。 打ちこんだネンポウが地面にささらず倒れたら、倒れたのをめがけて打ちおろし、あたれば自分のものとなった。
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ヨシの子倒し
長さ30cmほどのヨシの子を互に立てかけ2、3m離れたところから、1本のヨシの子を根元を先にして投げかけ倒した分をとり多く取った方が勝ちとなる。
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オハジキ
ネコギャー(猫貝)という小さな貝を、数をきめて出しあい順番をきめてふりまいて、当てようと思う貝と貝の間に小指をすべらせ、はじいて当てたら自分のものとなり次々とくり返す。はじき損ねると次の人に替わる。 後にガラス製のハジキができた。また素焼の土器や、それに顔の形を削ったものもあった。
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青年宿
立野の男子青年は古来自己の家庭には寝ずに、数名ずつ集まって他人の家に宿泊するという習慣があった。その宿泊する家のことを「青年宿」と呼ばれ、徳富春雄・野中十郎・増田政一等の住宅がよくあてられたそうである。毎日の風呂も昔からもやい風呂で、隣り近所の4・5軒が一緒になり、しかも男女混浴の姿であった。夕方から夜半にかけて20数名から30名位の人々が入浴を楽しんだ。使用する水はほとんど堀水をバケツで汲み入れ、燃料は主に石炭をたいた。今日では各自宅での入浴であるが、当時月を仰ぎ虫の鳴く声を聞いた野外風呂の情緒と景観はなつかしいものである。
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大野の宮角力
繁華街の映画館や娯楽設備に恵まれない農村の田舎では、古来自らの慰安を求め娯楽を楽しむために、腕自慢や力競べ等の運動競技が盛んであった。本町でもその例にもれず、特にこの大野村では若い青年層を中心に中老や少年を交えて格闘技の一種である角力熱が旺盛であった。始めは各周路毎に野っ原での草角力から出発し、漸次お宮の境内に片やを作り、後には村中央の青年会(現在の公民館)西側空地に立派な土俵を築き、祭日や余暇を利用して技と力を練ったのである。この大野における青年層の角力熱は、近くの搦・今町・作出等の青年たちを刺激し、ついには東与賀全村落に角力愛好の風潮が広がった。かくて大正10年代から昭和に入っても戦前・戦後まで、佐賀郡内でも一番優秀な角力選手が揃い、各地区各神社等の大会に出場して、雄を競い覇を争ったものである。 当時その主将格となり先導役をつとめた山田寛(股名源氏山)は、その頃を想起して次のように述べた。 「大野には角力好みの先輩が多く、その指導と奨励が一番良かった。角力にはこの〝しごかれる〟ことと〝練習〟とが最も肝要である。その頃東与賀村の招魂祭が毎年11月15日に学校の校庭に土俵が築かれ挙行されたが、どこの村落よりも5名ずつの選手が出場して、勇壮な角力大会であった。これには村としても力を注ぎ奨励のために補助金も出してくれた。後には先輩や学校の先生に引率されて、佐賀郡内は勿論県内各地の角力大会に出場した。その頃になると東与賀全村から優秀選手を選抜して、佐賀郡青年団の角力大会・佐賀県護国神社の祭典角力その他中野代議士参議院議員当選祝賀大会にも出場してよく優勝旗をものにしたのである。特に大正5年11月3日の明治神宮全国角力大会には、年齢僅かに25歳であったが佐賀県の代表選手として、小城郡牛津町関川堅次君等と出場し4勝1敗の好成績を修めたことは、私の生涯中でも最大の歓びであった」と語る。 更に角力競技は、体と体・精神と精神を互いにぶっつけ合って勝負を決する格闘技であるために、一度先輩と後輩そして師匠と弟子との関係が結ばれると、その仁義と情愛は実に堅固なものである。往時を思えばわが村の先輩鬼崎末吉・鶴田祐作後輩の吉田吉郎・山崎次郎等があり、他町村では小城郡の時森や川副町の大塚・梅野等、裸人生の親友であり土俵上の仲間であって、うたた感慨無量ですと、このようにしみじみと語る往時の猛者「源氏山」の両眼にはキラリと光る涙が浮かんでいた。