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[民俗・芸能][民謡・方言][蓮池校区]は7件登録されています。
民俗・芸能 民謡・方言 蓮池校区
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蓮池の方言
蓮池の言葉は、この地方の独特の言葉・アクセント・訛と、佐賀地方と同じ言葉が一緒に使われている。 言葉は聞いただけで、どこの地方の人かが大凡わかったもので、昔は他藩から来た人はすぐ判別出来、蓮池藩では佐賀本藩より二文字下った方言を作ったものとも思われていた。しかし蓮池藩が作られる時、直澄公に41名の側近と、犬塚氏・小田氏・江上氏の家臣と、にしめ侍と呼ばれた塩田方面よりの人達があり、その人達の間ではお小路言葉と言われる、佐賀藩と同じと思われる言葉「オサヨウデゴザイマシタ」という様な一般農家・商家とはやや違った言葉が使われていた。 犬塚氏・小田氏・江上氏・鍋島時代と一般住民の間に受けつがれたのが蓮池の方言である。その最も基本になる特徴は、佐賀は二文字下り、蓮池は四文字下りと言われる事である。アイウエオの内で一文字目がア、二文字目がイ、四文字目がエで例をあげて説明すれば、共通語の「会いに」は佐賀だと「イャーギャー」となり蓮池では「エーゲー」となる。共通語の「差出口」は佐賀では「シャービャー」となり蓮池では「セーベー」となる。この様な四文字目の言葉使いは、蓮池に限らず小田氏・蓮池犬塚氏・崎村犬塚氏等使われていたようで、筑後川沿いでもケー言葉は使われている。また蓮池だけのものでないけれど、セをシェ・ゼをジェ・エをイェと発音する。先生をシェンシェイ・全然をジェンジェン・十銭をジッシェン・英語をィエイゴというふうに発音する。 アクセントでは柿と蠣と垣の違い、橋と端と箸の区別が出来ない。 濁るところが濁らない。1時間をイチシカン・2時間をニシカンと言う。 形容詞で3回続ける。ジャンジャンジャン・ドンドンドン・ボンボンボン・ガタガタガタ・チョロチョロチョロと言う。 遊ビゲコンコー、ウンクッボー、行くとは言わないで、来ると言う。 同じ言葉でも佐賀江を隔てれば、アクセントが違う場合もある。セントウローをふれ廻る時に、蓮池の方は始めの方にアクセントがある。また一般にそうであるように蓮池辨といっても丁寧な言葉、目上に対する、同僚、目下へ、女の言葉、子どもに対し、赤ちゃん、けなし、けんか、等ある程度の違いがある。
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歌(軌道を見て)
園田初太郎作 肥筑軌道の哀さよ 通る度ごと見ていれば たまに空箱引いてゆく それでは炭代でも 取れはせぬ スットントン スットントン♪
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歌日独戦争凱旋祝賀の歌
園田喜八作 ころは大正3年の しかも8月半頃 日独戦争の命下り 此處や彼處の兵士らは 老たる父母あとに見て 恋しき妻子に生別れ 神尾中将の命令で リュウコウ湾やロウザン湾 知らぬ支那地に上陸し 青島さして進軍す 雨の降る日も風の日も 所定めずまま食べず 艱難苦労も厭いなく 兎追うように追いかけて 向う遙に眺むれば 西も東も砲台よ 南も北も砲台よ 其の内名高き砲台は モルトゲ・イルチス・ビスマーク ワルデック将軍が 固めたる17年がその間 金と知恵とに打任せ 難攻不落と誇りたる 膠州湾もなんのその 撃てや撃て撃て敵軍よ 弾丸の当るだけ撃て見よ 九州男子の手の内を 名誉と共に汚さらん 今日凱旋の兵士等を 喜び迎える国民の 万歳天地に轟きて 國の誉は吉野なる 朝日に匂う山櫻 天皇陛下万々歳 我陸海軍万々歳♪ (蓮池仁輪加一等賞受賞の歌)
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江下伍長の歌
江頭 文明作 一.芙蓉城址の春浅み 雪雲低くおおえども 今年も梅の白々と 君が勲を勾うなり 二.のどには死なじ丈夫が 廟行鎮の寒空に とどろとあげし爆音は 海の外までもひびきけり 三.天賜の園の葉がくれに 今日しも仰ぐ姿こそ やさしく強き御民なる 我が胸ぬちのしるしなれ
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もぐら打ちの歌
もぐらもぐらもる(ん)な ならずの柿(梨・桃)の木 千成れ 万成れ 億万成れよ もぐらもぐらもる(ん)な うちん者のちぎっときゃ 畠の真ン中ァ落ちろ よその者のちぎっときゃ 堀の真ン中ァ落ちろ 十四日のもぐらうち♪
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蓮池の民謡
「蓮の池節」 一.蓮池の在郷辺から 糊つけ着物に 小倉の帯しめ 願正寺詣りさす時や ちょうどさいば 藁人形 二.一で赤かもんな 法印さんの衣か お稲荷さんの鳥居か朱か紅か お猿さんのお尻か 素海老のいでがらか 三.次に白いもんな 豆腐に初雪 源氏の白旗 横丁の丸木屋の白壁に お姫さんの内ももど 「おりきんばっちゃん」 お力んばっちゃん どけェ行きよっかい 目薬びんどんさげて つっくるびいて 鼻たれて 私や 通り小路の黒田さんに 目の養生 いつからや おとてから そりゃまた きつかね とこ電信柱に ずくにゅうどんば 打ったくらんごとね 「蓮の池節」は言うまでもなく、樺島政市の作である。その歌詩にこめた皮肉と、チョッピリにじんだお色気は、さすが長崎にも学んだことがあると言われる片鱗をのぞかせている。彼は盲目の身で三味線をかかえ、蓮池から佐賀の街までの道をトコトコ歩いて行き、明治から大正にかけての佐賀ンマチから神埼あたりまでも流して歌い廻ったと言う。その家のことなどを読み込んで即興的に歌うのが、得意だった。三味線も名人の域にあった。昭和の始め、90歳で亡くなったが、蓮の池節は今も宴席は勿論、テレビ等にもとりあげられ、トコトコ政市たんの愛称と共に何時までも人々の心に残るであろう。 「おりきんばっちゃん」は、対話体のなかに実に見事に方言が生きている。どこか仁輪加でも見ているような、思わず微笑を呼ぶものがあり、半面、かくされた哀愁といたわりを感ずる。蓮の池節の樺島政市の作ではないかとの説もあるが、つまびらかでない。
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おりきんばっちゃん(蓮池バージョン)
「おりきんばっちゃん どけ行くかんた 目ぐすいびんば さげて つっくるびーて 鼻たれて 私しゃ中地名の(本来は私しゃ通い小路のぇ) 久保さぁんへ(本来は黒田さん) 目のようじょう いつからや おとちぃから そりゃ又きつかない とこ電信柱に 頭入(ずくにゅう)どんば 打ったくらんごとない♪」 100年程前、中地名(現在の中地)には久保眼科医院があった(現在の糸山氏邸)。広滝に発電所が出来て、大正4年に電気がきていることから考えて、電信柱は随所に立てられめずらしかったと思われる。 故におりきんばっちゃんは樺島政市の作として、蓮池の人々に親しまれている。 樺島政市の生涯は、1844年から1935年(91歳)である。 昭和49年(1974)に書かれた『芙蓉校百周年記念』の本に、100年前の中地の地図がある。100年前とは明治7年(1874)で、その地図に「久保眼科病院」が見える。樺島政市、30歳頃と思われる。このことから、樺島政市の作ではないかといわれている。