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[民俗・芸能][行事][三瀬村]は17件登録されています。
民俗・芸能 行事 三瀬村
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ホンゲンギョウ
正月7日早朝に行なう子どもの火焚き行事である。 この行事をやるために、子どもたちは数日前から竹切りをやって材料を集める。なかには大人が手伝ってくれる地区もあった。集められたたくさんの竹で小屋を作り、6日の夜はここに泊って餅などを焼いて食べる。 翌7日の早朝に小屋に火をつける。火勢が強まってくるとそれこそ真の爆竹で、耳をつんざくような激しい爆発音をたてながら、生竹が火煙天に沖して燃えあがる。 子どもたちは、「奉吉書(きっしょたてまつる)」と書いた紙を棒の先につけて燃え盛る焔のなかにさしだす。紙は火焔にあふられて勢いよく天に向って舞いあがる。 よけいに上がったものが、字が上手になり願いごともかなうという。 焔がおさまるとできた炭火で餅を焼く。七ころび八おきと唱えながら、餅を棒の先でころがして焼き、焼きあがったのを食べる。七転び八起きと唱えるのは無病息災を祈る意味だという。 また、大人も子どももこの火で身体を温めると一年中無病息災で過ごせるという。 各家ではこの火を持ち帰っていろりの火にする。 また、鬼の手といって、竹をこの火にあぶって竹さきをまげ、これを、家の門口にかけておくと魔よけになるともいわれている。 ホンゲンギョウのいわれについては次のような伝説がある。 むかし、仏教と外道とが、それぞれ自分の信奉する宗教が正しいといい争い、たがいに相手の経文を焼いた。ところが、外道の経文は燃え尽きて灰になってしまったが、仏教の経文は火勢にあおられて空高く舞いあがり、炭のようになっても経文は消えずに残っていた。 そこで、これこそ本源の経で、真に衆生を済度するものは仏法であるということになった。 このことを後々まで記憶するために、毎年正月7日の早朝にこの行事を行なうようになったという。 また、杠地区の野波神社の氏子では、この行事をオニビタキ(鬼火焚き)といっている。 これは、野波神社の祭神である神功皇后が御懐妊になって應神天皇をお産みになるとき、 御出産の予定日がちょうどホンゲンギョウの日であった。氏子たちは早朝にホンゲンギョウの火を焚くのをやめて、皇后の御安産を祈った。その日の夕方御安産のしらせが届いたので、それから小屋に火をつけた。 それ以来この地区では毎年夕方になってから火を焚き、これを鬼火焚きと呼ぶようになったという。 この外、脊振山天台密教にかかわる法華行の名残ではないかという説もあるが、何れも推測の城を脱し得ないようである。 ホンゲンギョウは次に述べる七福神やモグラ打ちの行事とともに、子どもたちにとっては年の始めの最も楽しい行事であったが、ホンゲンギョウのまねをして火事を起すような事件があったので、子どもの火遊びを誘発するおそれがあるとして、現在ではどの部落でもやめさせてしまった。 しかし、池田部落では何とかしてこの行事を後世に伝えたいというので、昭和48年正月に大人が参加してこのホンゲンギョウを復活した。 神代家では鬼火とよび、百姓たちにまで酒を振舞っているところをみれば昔は大人の行事になっていたのであろう。
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七福神
正月6日または7日の夜行なう子どもの行事である。 子どもたちは、大黒・恵比須・毘沙門・辨天・布袋和尚・福禄寿・寿老人の七柱の福の神に扮装して、部落の家々をまわり、新年を祝福する。 七福神に扮装した7人の子どもは、餅かつぎの子どもたちを従えて、各家の入口に来て 「七福神のお入り」あるいは「七福神が舞いこんだ」と連呼しながら、横槌(藁を打つ槌)で入口の戸をたたいて家の中にはいる。 部屋に通されると、次のような順序に席につき、各神それぞれセリフを唱える。 一 布袋和尚「鬼は外、福は内。鬼は外、福は内」と唱えていり豆をまく。 二 大黒天「福はこなたにドテンドッサイ」と唱える。 三 恵比須「金の釣竿、錦の糸、花鯛の一コン釣り上げた、釣りあげた」 四 寿老人「道の小草に米がなる。道の小草に米がなる」 五 毘沙門天「そりゃあそう。そりゃあそう」 六 福禄寿「ごもっとも、ごもっとも」 七 弁財天「それはそうでござんすわいのう」 最後のセリフが終わると、家ではお礼として餅やみかん・干柿・砂糖などを七福神にお供えする。 餅の数は偶数を嫌い、7・5・3の何れかにする。上位から順にいただいて、最後に七福神の仲間からはずれた従者「餅カリイ」(餅かつぎ役)が「餅はよごうでも(ゆがんでも)太かとからくんさい」といって受取り、袋に入れてかつぐ。 こうして、各家を順次にまわって歩き、もらってきた餅や砂糖は、子ども宿として借り受けた1軒の家に集まって、ぜんざい・ぞうになどにつくって食べる。(唐川、藤井尚弘氏談)
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もぐら打ち
正月14日に行なう子どもの行事である。 14日は小正月の前日で、14日節句あるいは14日正月ともいわれる。 モグラ打ちは小正月の当日にやる部落もある。 先端に藁たばをしっかりくくりつけて作った竹の打ち棒を振りあげて、 「14日のもぐら打ち、ならずの柿の木やなれとぞ祝うた。千なれ万なれ、他所の者のちぎっときゃ、川の上になぁれや、家の者のちぎっときゃ、畑の真中なあれなれ、ならずの柿の木、なぁれとぞ祝うた」。 と唱えながら、家々の屋敷のまわりを打ってまわる。打ちまわった棒は「柿の木、梨の木、ひっかけろ」といって、木の枝に折りかけておく。 もぐら打ちをしてもらうと、その年は豊作になるという。 家々では子どもたちにお礼の餅をあげる。いただいた餅は大きな袋に入れて、餅かつぎの子どもがかついで帰る。 終ったら1軒の仲間の家に集まり、ぜんざいを作って食べる。 また、茶講内(近隣組)に、初正月を迎えた男の子があれば、14日の朝、各家々からモグラモチといって、長さ15㎝・幅5㎝ぐらいに切った裁餅をお盆やお膳にのせて、お祝いに持って行く。将来モグラ打ちをやってもらうので、強い子どもに育ってくれることを期待する儀礼である。 昭和48年正月4日、中鶴部落の子どもたちが、杠 保氏指導のもとに、RKBテレビでこの行事を放映し、好評を博した。 『神代家行事扣』にも「土龍うち」 のことが記されている。 同14日 一 門錺等取仕迎候事 一 祗園社の花莱更候事 一 土龍のこと 同晩 一 ふまれな鱠 大根 魚 一汁 一 煮物 こんぶ 魚 一力餅 一めし 一 酒 一 にしめ見合 以上のように、この日、門餝などを取りのけて迎え、祇園杜の花菜をとりかえるとともに、もぐらうちをやることになっていた。 そうして、夜は「ふまれな鱠」といって、畠の土中にあって踏まれても、もぐらの害さえなければ、きれいに育つ大根に、魚をきざみこんだ鱠をつくって、力餅とともに食し、こんぶと魚の煮物で酒宴を開いていて、現今のもぐらうちの源流をなしているようである。
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塩配り
現在では見られないが、最近まで「塩配り」をやった。 服装はふだん着ででかけるが、誰であるか他人に気付かれないように頬冠りをして、「てぼ」(竹で編んだ籠)に塩を入れて持ち、村内の各家を訪れて、竃の上に塩を供え、三宝荒神にお祈りをして餅をもらってまわるのである。 昔から荒神様はかまどの神とされていた。
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野狐使い(やこつかい)
みすぼらしい服装に着かえて、顔に狐の面を被り、各家の門口に立って「京都下りのお稲荷さんで、どちらを向いてもお家繁盛と鳴いてゆく、スココンコン、スココンコン」と、狐のまねをして餅を貰って歩くのである。京都の稲荷というのは伏見稲荷のことで、ここには倉稲魂神(五穀を司る神)を祭ってある。 昔から狐はお稲荷さんの使いとされていた。野狐使いは五穀豊穣を祈り歩くのであって、昔の人の素朴な風習であったが、これも塩配りと同様、今では見受けなくなった。
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鍾馗大臣
半纏に股引の服装をして、しめ縄(注連)の帯を腰に結び、額にはしめ縄の鉢巻をし、竹割を右手に持って、各家庭の表戸を叩き「裏も表も悪魔退散、厄払いの鍾馗大臣」と、大声に唱えながら餅を貰って歩くのである。 鍾馗大臣が疫病神をはらう神であることは、中国から伝わったものである。 各家庭の無病息災を祈ってまわった風俗で、前記の五穀豊穣を祈った野狐使いと同様、素朴な庶民の祈りから生まれた風習であろう。これも現在では見られなくなった。
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水かぶいやんぼし
大正の初期頃まで〝水かぶいやんぼし″(山伏)を迎える風習があった。 地区の世話役から〝水かぶいやんぼし″がやって来るから、各家庭では用意をととのえておくように触(ふれ)がまわると、各家では、臼・たらい・水桶・こがえ(木製脚付の洗面器)・えつけ(柄の付いた手桶)などに水を満たして、表の庭先に出しておいた。 山伏はボーランギャア (ほら貝)を吹きならしながらやって来る。 新春は迎えたといっても、睦月(旧1月)・如月(旧2月)の寒気はまだ肌を劈くような厳しさであったが、褌1つの裸になった筋骨たくましい ″やんぼし〟(山伏)は、容器の大小をえらばず、その水を脳天から一気にふリかぶって、家から家へと次々に駆けまわった。ただ、水のはいった臼を頭の上にさしあげて水を浴びることのできる大力の 〝やんばし〟は見かけなかったという。 水かぶりの行が隈なく終わると、山伏は衣を身につけ、各家の門口に立って経を読み、布施をうけた。 これは、病気・凶事等の予言や、それらの退散を祈祷するという、英彦山修験道を実践する山伏たちの苦行で、この行をやってもらうと、その家は1年中無病息災であるといわれた。 正月行事は一応これで終わることになるが、神代家では15日正月・20日正月の行事も行なったことが記されている。 同15日 一向 香物 一汁 豆腐・鹿爪午蒡・こんぶ かつお 漬わらび・豆・するめ 一粥 同廿日 一、鱠 大根 一汁見合 一酒 かつお 一、煮物魚 但くたけ石飯 一にしめ 一めし 右の記録からみると、きわめて簡素に行なわれたようである。
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ひなまつり
ひなの節供、あるいは桃の節句ともいう。雛檀を作ってならべる内裏雛は、江戸時代の中頃に京都で起ったものといわれ、起源は新しい。 桃の花をあげ、ひし餅や白酒を供えてお祝いをするのが一般的であるが、神代家 扣には次のように記されている。 3月3日 一、鱠 大根 魚 一汁 一、煮物 こんぶ 魚 一めし 一にしめ かんころ くじら ふき 一あえ物 つみな とくわか(わけぎ) 田にし 一、草の餅の事 雛段を飾ることはしるされていない。にしめやあえ物の内容などは、現今の節供料理と類似していて興味深いものである。当地域では3月3日または1月遅れの4月3日に、よもぎ餅(ふつ餅)などをつくってお祝いする。
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おいたち
田植前に部落の若者や中老たちが寄り合い、飲食をともにする行事である。にくじきといって、にわとり・牛肉その他栄養分の多い料理をつくって酒を汲みかわす。もとは数日間続けるならわしであったが、現在では1日で終わるところが多く、田植の時期も早くなったので、期日も地域によってまちまちである。 本来は田の神を招いて祭り、御馳走を供えて田植の無事を祈る行事であった。幾日も続けたのは、御神酒をいただき、栄養のある御馳走で神人共食の宴をはって、農繁期の激働に耐え得る体力を蓄積するとともに、心構えをととのえるためであったと思われる。
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さなぼり
田植の終わったあとの行事である。早苗振の語からきているといわれ、「さ」は田植または田植をつかさどる神の意で、神上り(さのぼり)、つまり、田の神がお帰りになる意味があり、田植えはじめを「さびらき」というのに対する語である。 本来、田植が無事にすんで、田の神を送るための祭事であったが、のちには田植終わりの祝いや休養日と考えられるようになった。 行事の内容はさまざまであるが、餅をついたり、まんじゅうをつくったりして、御馳走といっしょに神仏に供え、田植を手伝ってくれた人々を招いてお祝いをする。
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盆綱引き
直径2、30㎝もある大きな盆綱を若者たちでねりあげて、子どもたちに引かせる行事であるが、最近はすたれた。 盆綱ねりは古くは八朔(8月1日)からはじめた。山のかずらや綱を数本持ち寄り、これをねり合わせて、大きな綱をつくり、少年組、青年組が対抗の形で引き合った。 綱引きの網は蛇体を模したもので、生命力の強い蛇体を引くことによって、地霊を刺激し、作物を豊作に導かせることが、もともとの目的であった。しかし、時が下るにつれて、引き勝った方を勝とするレクリエーション化されたものになり、宗教的な名彩はなくなった。 一説には目蓮尊者のお母さんが、地獄に落ちたのを綱で引き揚げ、極楽界に迎えた。 その綱が綱引きの由来で、その成功を祝って、盆踊りがなされるようになったという説もあるが、これは単なる俗説にしか過ぎない。 本村には東松浦郡地区にみられるような盆踊りの風俗はない。これは幕末、佐賀藩が極端な勤倹令を出して、領内に歌舞音曲などを禁止させたためだといわれている。 広瀬部落では子供盆といって、8月16日「観音さん祭り」をやり、この日に盆網を引いた。
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むぎうち
旧暦7月17日前後に、若者・中老たちが寄り合って、飲食を共にする行事である。田植前の「おいたち」と、収穫前の「おひまち」の中間に行なわれる行事で、盆行事も終わり、いよいよ秋の農作業にとり組む心構えを身につけるための農事の区切りを意味した。 中鶴部落では十七夜に無量寺の灯籠祭りをやった。その夜は相撲や福引などの余儀も行なわれ、参拝者にはおにぎりやアヅキあんこなどをふるまった。
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八朔
8月1日の行事で、各地に様々な習俗を伝えているが、稲作の進行にともなう行事である。この時季は静かに秋の稔りの豊穣を期待するとともに、210日の季節風を警戒する時でもある。 所によっては風祭りの日とされているが、多くは田誉め、作頼みなどと称して稲の穂出しを祈願する行事である。中世には武家社会や公家衆の間にも流行して、タノムの節供と呼ばれた。 『神代家行事扣』にも、8月朔日、一たのもの祝の事、と記されている。昔は村をあげての行事であったらしいが、今では形式だけの行事になってしまったようである。 『神代家行事扣』にはこのあと、9月9日の重陽の日に「一、鱠田いも・魚 一、煮物魚・一汁・一めし、同14日には、一休幕に付酒肴□□、同15日朝、一石飯・一いわし・一鱠 田いも・魚 一煮物 切りこんぶ・魚、一汁・一石飯めしと記してあるが破損していてよくわからない。 田いもとあるのは「くわい」のことでこの地域では「朝鮮ギャア」という。
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おひまち
秋の収穫前に部落の若者・中老たちが寄りあって、「おいたち」と同じように飲食をともにし、心身の英気を養う。昔は数日間続けたが、いまでは1日か2日で終わるところが多い。
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草木祝い
秋の彼岸を中心に行なわれ、五穀豊饒の予祝である。茶講内全員が祭り宿に集まって飲食をともにする。部落によって様々のやり方があるが、祝い日の中の1日は男性が調理し女性を客座にすえて祝宴をはる部落もあった。
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煤(すす)はらい
今年の行事は大祭りを最後にひと段落し、そろそろ新しい年を迎える準備にとりかかる。正月準備は暮の13日からはじまる。煤(すす)はらいといって、仕事を休み1日がかりで家の内外を大掃除する。 現在では家の都合で適宜に行なうようであるが、12月13日に煤はらいをする風習は、江戸時代から明治・大正のころまで行なわれていた。 家の中のけがれを清めて、トシの神を迎えるのにふさわしい祭場にしておくのである。日本の神々は罪・咎・穢れをきびしく忌み、すこしでもけがれのある場所には来臨されないと考えられていたからである。 三瀬の家々では笹竹を切ってきて、神棚・仏壇を中心に天井や壁などの煤やくもの巣を払って大掃除をやる。期日は暮の13日とはきまっていない。
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餅つき
餅つき用のウス(石うす・木うす)やキネ(横ぎね)は自家用として備えてあり、各家で戸別につくか、数戸がモヤイ(共同)でつく。いまでは新式の動力餅つき機でつく家が多くなったが、ウスやキネを使ってつくのには大変な労力を要する。 新嫁のいる家庭では、特別に1斗餅の大鏡餅をつくって嫁の実家に贈る。 お鏡はトシノモチといって床の間に供えるものと、お寺にあげるもの、その他神仏・農機具・かまど・車などに供えるものを、それぞれ一かさねずつつくる。 お鏡ができあがったら正月に家族が食べる餅を準備し、最後にアンコ餅といってアン入りの餅(大福餅)やサトウ餅といって砂糖のよくきいた小豆アンをまぶした餅をつくり、残りをさらにやわらかくつきあげてショウイモチ(ショウガなどをすりこんだ醤油に小さくちぎって浮かした餅)にして、そのばで食べる。また、粟を入れた粟餅やヨモギを入れたフツ餅(モグサ餅)にしたり、カテ餅(糅餅)といってコゴメ(小米)をまぜてついた餅などをつくって、日常米食のたしに用意するならわしがあった。