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[遺跡・跡地][跡地][北川副校区]は3件登録されています。
遺跡・跡地 跡地 北川副校区
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御船屋敷跡
藩政時代は八田にも佐賀江と同じく、海運が開け賑わいを見せていたと思われる。八田宿周辺は物資の集散と、城下町への人馬の往来も多く、茶店があり、荷揚場があり、舟の出入りを監視する屋敷や武家屋敷等があって今でも御船屋敷跡、荷揚場跡、今村屋敷跡が残り、昔の面影を物語ってくれる。
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佐賀馬鉄
明治37年2月28日に、佐賀馬鉄が創立されている。10月20日に、初めて片田江から諸富間に馬鉄が走り出し、翌年には、佐賀駅まで延長された。最初は、大崎の吉原病院付近に会社が設立され、12人乗りの客車十数台と挽馬20頭が用意された。 諸富から明治橋の間を10区に分け、1区の乗車賃は、1銭5厘であった。 佐賀駅から諸富まで2里20丁(約8.2km)を、約1時間かかって往復した。 資材は、東京馬鉄が電車と入れ替えたものを譲り受けたので、車輪が擦れてよく脱線し、その上子ども達が線路に石をのせたりしていたずらをしていた。 現在は、吉原病院の所に、佐賀馬鉄の記念碑が建てられている。
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国鉄佐賀線跡
昭和の初め頃は、諸富から佐賀市までの道 (国道208号線通称諸富国道) は、舗装がされていないため、石がゴロゴロした道路であった。 馬鉄も昭和3年までは開通していたが、人が歩くだけの道となり、トラック・乗用車はまれに通り、馬車、車力とリヤカーが走っていた。 歩くことが中心であった頃に、鉄道が走ることになったのは大きな変化で、国鉄佐賀線は、昭和4年3月に着工し、10年5月25日に開通した。建設のために、大木遠吉鉄道大臣(大木喬任の第3子)の尽力があったそうだ。 国鉄佐賀線は、佐賀駅からの駅は、東佐賀、南佐賀、光法、諸富、若津、大川、柳川、三橋、百丁、終点は瀬高駅であり、これらの駅から集団就職、戦争出征等でも利用された。(北川副町内には南佐賀駅と光法駅があった) 車両は最初はガソリンカーであった。 昭和62年3月27日に廃線となり、今は桜並木の自転車道と筑後川昇開橋と佐賀線しのぶ橋が残っているだけであるが、当時、南佐賀駅から光法駅まで植樹した桜は、今や見事な桜のトンネルを作っている。県外からの見物も多く絶賛の評価を受けている。