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[建造物][その他][富士町]は5件登録されています。
建造物 その他 富士町
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古湯温泉
古湯温泉は、佐賀駅の北方20㎞、標高200mの山峡にあって、昭和41年(1966)7月、厚生省から、国民保養温泉地の指定を受けている。 泉歴も古く、洋画家の青木繁やアララギ派の総師として、日本歌壇の最高峰といわれた歌人の斎藤茂吉(長崎医専教授、現長崎大学医学部)ら諸先生の曽遊の地として知られている。温泉の泉質は、炭酸ナトリウム、ラジューム、マグネシューム、エマナチオン等を主な成分とする単純泉で鉱味をおび無色透明無臭無味で、全国的にもすぐれた温泉として折紙をつけられている。 秦の始皇帝の命で不老長寿の霊薬を求めて、有明海の寺井津浮盃に上陸した徐福は、金立山にたどりつき、北山の翁として、浮世を忘れて暮らしていた。ある日、湯の神が現れ、翁にむかって、「この山中の西北のあたりに黄金の霊が湯となって湧きだすところがある。必ず行ってその源をうがち、これを広めて多くの人を救われよ」と告げて消え去った。やがて、翁は、山道を踏みこえ谷川のほとりにたどり着き、縁の苔むす岩の間から湯がわきだしているのに行きあたった。翁はこれこそ神のお引き合わせと大いに喜び、ささやかな庵をたて「湯守り」となった。以来、幾多の荒廃、再興を繰り返しながら古湯権現山の実相法師らにより守られてきたが、元禄の大地震で城山が崩れて、温泉は塞がってしまった。その後、88年をへた寛政3年(1791)の春、古湯村の稲口三右衛門が小田の水道に鶴が脛を浴して数日の間に、傷が治り飛びさったのをみて、不思議に思い指をひたしてみたところ、少し温かったので、クワで辺りを掘ったところ、古い松の角材がでてきた。この松材は、往時、浴室を修理した木材で、とりさった後から湯が湧きだした。そこで、稲口三右衛門は清存法師と相はかり、村人と協力して浴室を再興した。この温泉を鶴の湯といい、のちに鶴霊温泉と称した。 川上実相院の英竜僧正が創掘した温泉が、英竜泉で、現在、古湯温泉センターにある扁額「英竜泉」は、同僧正の真筆であり、センター前の薬師如来も同僧正の勧請である。 古湯権現山には、徐福を湯の神として祀る木像が、また鶴霊温泉、英竜泉の湯元にも、それぞれ再興した人の像を湯の神として祀っている。
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熊の川温泉
この温泉は、佐賀市から16kmの北方に在って地の利を得ている点条件がよい。 中国の政務院副総理、中国科学院長など歴任した郭沫若先生が、かつて大正12年(1923)に九大医学部を卒業し、その翌年の大正13年(1924)、妻子4人を連れて滞在されていたことで有名である。この湯の泉源、泉質、適応症など、古湯温泉と同型で著しい差異は見られない。ここより4km北方の古湯温泉とともに、昭和41年7月厚生省より、「古湯、熊の川温泉郷」として、国民保養温泉として指定を受けた。 大同元年(806)に弘法大師が唐から帰国して、全国行脚の途中、弘仁7年(816)にこの地を訪れ、足の折れた鵆が田の中に入ったり、出たりを繰りかえしているいるうちに足が治って飛び去っていたのを見て温泉を発見したと言われている。その謂れが寿屋旅館の玄関に飾ってある。(明治17年に花房郁太郎という人が「隈川温泉」という題目で書いている。)その後、洪水で水没したが、延宝時代(1673〜1680)、時の大庄屋山口金左衛門が埋没した温泉を再興したと言われている。 当時から、皮膚病や毒除きに効果があるといわれ広く利用されてきた。初代佐賀藩主鍋島勝茂が家老に宛てた書状に、病のため熊の川温泉で湯治することを書き送ったものがあって、戦国末期からすでに名の知れた温泉であったことがわかる。 火災や洪水の被害にあいながら明治12年(1879)に村有となり、その年旧11月より明治14年旧3月まで熊の川温泉の改築が行われ、力役として次の地区が協力した。熊川、湯原、柚木、内野、下熊川、永渕、合の瀬、大野原。 明治13年8月旧17日より30日間歌舞伎が実施された。 昭和24年(1949年)の大水害まで、河川敷には露天風呂があり、また、温泉のこぼれ湯では、地区の人達の洗濯場となって賑わっていたそうである。 平成4年に第二泉源が発掘され「鵆熊泉」と名づけられ、旅館はすべてこの「鵆熊泉」を利用している。熊の川温泉はラドン(ラジウム)含有量は九州一という放射能泉で、肌はツルツルになるし、いろいろな疾患に効果が大である。昭和36年、大火災発生。昭和41年7月国民保養地に指定される。平成10年4月には,富士町と湯の原地区との第3セクター方式の「鵆の湯」がオープンし、地区も大いに賑わい、現在に至っている。
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二一世紀県民の森
二一世紀県民の森は、北山湖畔に、佐賀県政百年記念事業として、11年の歳月と42億7500万円を投じ、平成3年(1991)3月完成した。脊振・北山県立自然公園の恵まれた自然環境を活かし、人間が自然にふれあう憩の場である。利用面積200ha、うち県有林50ha、富士町有林2ha、民有林147haである。 主なる施設として、展示ホール、学習館、研修施設の森林学習館をはじめ学習展示林、野鳥の森、世界の森、ふれあいの森、えびね園、水辺植物園などの学習施設がある。 1周6km、3ヶ所のステーションに200台の自転車があるサイクリング施設、多目的広場(ソフト1面)、運動広場(テニス3面)、冒険の森、フィールドアスレチック、草スキー場、ネットコンビネーション、ジェットローラースライダー、ゆらゆら橋、キャンプ場、木工芸センターの訓練施設、それに記念広場、展望台、遊歩道、手こぎ・足ふみボートなどの施設が整備されている。 総合案内センター「ほおの木」は総合案内、特産品の食堂売店、喫茶など利用者の便宜を図るとともに、県民の森全体の管理をしている。 地元の富士町、三瀬村、農協、森林組合で第三セクター「北山湖地域振興公社」を設立し、県民の森全体の管理運営、それに北山少年自然の家の食堂部、北山湖の遊覧船の運営など利用者の利便を図っている。
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雄渕・雌渕公園
雄渕・雌渕公園は、熊の川温泉と古湯温泉の中間地点に在り、明治の晩年までは、北山の木材流しや筏流しで最大の難所と恐れられていた。 たまたま大きな木材が右岸雄渕の洞窟に突込めば、再び浮上しない程深渕と言われている。水面下の洞窟には、誰も入った者はなく、様々の伝説や逸話を残し、今なお神秘のベールに包まれたままである。 川上川の鮎もこれより上流へは上ることができないので、その下流の集落を「鮎の瀬」と呼んでいる。 明治32年(1898)、長崎県波佐見金山会社の鮎の瀬発電所(現雄渕トンネル南架橋下)が建設され、「水から火が出る、世にも珍しい。」と見学者が詰めかけ、発電所と共にこの地の名声が更に広まった。 また、中国の医師で文学者郭沫若も、熊の川温泉滞在中に、この地を訪れたので、これ記念し昭和57年10月、この地に建立した「郭沫若先生記念碑」は、淡々と音立てて落ちる雄渕の滝、悠々と流れる雌渕を静かに見守っているかのようである。因みに碑文は、中日友好協会初代会長の廖承志先生の手によって書かれている。記念碑北方約100mの地点に架けた鳴瀬橋は、昭和59年(1984年)完成した斜張橋で、真紅に燃えるような色彩は緑の自然の中で一際目立ち、蒼い深渕と調和美を誇っている。 なお、国道323号線雄渕トンネル下方約100mの地点に、弘法大師ゆかりの地、「御手洗の滝」がある。
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熊川城
上熊川の合瀬、標高346mの山頂にあり、神代勝利が築いたとされている。山内への関門を扼する要衝である。弘治4年(1558)神代勝利が龍造寺と戦ったときの本陣である。