検索結果 RESULT
[建造物][その他][開成校区]は5件登録されています。
建造物 その他 開成校区
-
北部バイパス(国道34号線)
国道34号線の交通緩和のため北部バイパスが計画され、昭和46年12月に兵庫町より三日月町間が、昭和49年4月に牛津までが全面開通した。 また、西部環状線が計画され、昭和51年完成した。昭和46年7月に都市計画の線引き(市街化区域と市街化調整区域の線引き)がなされ、そのために新村地区(開成2〜6丁目)は急速に発展した。
-
西部環状線(国道208号)
昭和51年7月に西部環状線として北部バイパスまで開通し、平面交差で交っていたが、翌、昭和52年12月佐賀医科大学開校の為、市道医大道路として拡幅、開通となり、北部バイパスと立体交差する事に成った。それに先駆けて西部環状線以東及び北部バイパス以南が市街化区域の指定となり急速な発展をとげた。
-
青年会場
青年クラブや青年宿とも言ったが、現在の八戸溝公民分館の前身で、現在地の八戸溝公民館の場所に大正末期から昭和の初期にかけて、当時としてはモダンな黒レンガ造りで建築されたと聞いている。鍋島町史によれば、明治40年頃より各町区にあった青年会場で、小学校の教員を招いて夜学が行われた。小学校教育の補習をこころみ、公民教育、農業教育、体育が主眼であった。 そして、大正6年には正式な鍋島農業補習学校(後の実業青年学校)として発足し、昭和23年に閉校した。現在の70歳以上の男性は、寝具を持ち寄り昼間の疲れも忘れて、一夜を語り合うのが楽しみな集会所であったといわれている。
-
鍋島駅
鍋島町における経済活動も次第に盛んになった段階で、地元はもとより近郷の市町村においても駅の設置を希望する声が高まったので、当時の鍋島村長中島猪六氏が中心となり、当町出身の在京有力者や三好勝一県議の協力を得て運動が進められる中、肥前山口から諫早に至る長崎本線敷設工事の状況視察に来佐した、時の鉄道大臣小川平吉氏に陳情したことが決め手となって、昭和5年2月から工事が始められた。 盛り土には機関庫の石炭ガラを利用し、労力は地元江頭の人があたり、人夫賃は1日・1円80銭であった。工事が農繁期と重なったために若干の軋轢もあったが、障碍を乗り越えて工事は完成し、同年7月7日から鍋島駅として一般運輸の営業が開始された。喜んだ村民は、江里の「浮立」をはじめ、各地区から「踊り」や「にわか」を繰り出して、7月10日に盛大な祝賀行事を行い祝福した。駅の開設によって地元民の受けた恩典は計り知れないものがあり、昭和28年の大水害の折は、駅の倉庫が牛馬の避難場所となり、水死を免れたようなこともあった。
-
佐賀鍋島郵便局
鍋島駅が開設された翌年の昭和6年4月1日、鍋島駅前通りの北突き当たりに駅と向かい合って、為替・貯金・郵便・保険・年金を取り扱う局長以下3名の無集配特定郵便局として鍋島郵便局が開局され、初代局長には中島熊太郎氏が就任した。 昭和16年3月11日には電報(配達を含む)電話の終日取り扱いを行うなど業務を拡張し、定員は4名(他に請負の配達員1名)に増加した。時世の推移に伴い、昭和42年4月30日には電報配達業務を廃止して定員を元にもどした。昭和53年12月25日局舎を全面改築して床面積を80㎡にふやし、同日付で局名を佐賀鍋島郵便局に改められた。昭和32年11月15日からは、父の後を継いで中島久雄氏が局長に就任し、業績は向上、発展の一途を辿っている。