検索結果 RESULT
[建造物][その他][神野校区]は7件登録されています。
建造物 その他 神野校区
-
神野公園
旧藩主鍋島直正(閑叟)公の別邸で弘化3年(1846)に造成された。一般には「神野のお茶屋」と呼ばれていたが、大正12年(1923)3月に鍋島家から佐賀市に寄付され、公園として市民に開放され市が管理することになった。公園には、多布施川の清流を引いて池を造り、小山を築いて四季の植物を配した日本庭園と睡蓮池や展望台を備えた洋式庭園があり、動物園、こども遊園地、野外音楽堂、野生のトンボを観察できる「とんぼ池」なども設置されている。また、園内には幕末から明治初期にかけ活躍した江藤新平の銅像、宮地嘉六文学碑、中島哀浪歌碑などがある。 公園内には約1,000本の桜があり、そばの多布施川沿いの約3,000本の桜とともに、4月初旬には多くの花見客でにぎわう。小城公園(小城市)、旭ヶ岡公園(鹿島市)とならんで県内三大桜名所と言われている。 昭和34年(1959)1月、都市公園として計画決定され、公園面積は5.4haである。公園の西隣には、昭和45年(1970)に開園した交通公園がある。 【思い出】 正面から入った所にある二棟の建物が当時の別荘で、園内には多布施川の清流を引いた池があり、築山は老松古梅その他の樹木が雅趣を添えていた。 市は公園として拡張し、終戦前には、今の睡蓮の池の辺りに運動場が造られ、市内小学校の連合運動会も開かれた。戦後、更に拡張整備され、動物舎、小鳥舎、そして子供遊園地などが造られ、江藤新平像、宮地嘉六句碑、中島哀浪歌碑も建立され、築山西側の田圃に西神野の農家の人々によって、当時としては珍しい苺園が作られ、一般に公開されたこともあったが、今は交通公園となり、面目を一新した。市の内外の小学校一年生の春の遠足は、たいていここに来ることが多く、市民の憩いの場所として親しまれている。(『神野小学校百周年記念誌』による)
-
佐賀競馬場
西神野(神園3丁目)に競馬場ができたのは昭和4年(1929)5月である。競馬場の総面積は11,000坪、馬場6,300坪、建造物570坪、走路1,000m、幅員16mで、その頃では九州屈指の模範競馬場であった。昭和14年(1939)までは毎年春秋2回の競馬が開催されたが、支那事変の拡大とともに馬の重要性が再認識され、昭和15年(1940)11月7日に軍用保護馬鍛練場となり、鍛練馬競馬が開かれたが、これはそれまでの競馬に比べて面白くなかった。昭和16年(1941)12月8日太平洋戦争が起こり、昭和18年(1943)には鍛練馬競馬は中止、場内の施設は市内の軍需工場、新聞社等に貸与され、走路は野菜芋畑となった。 昭和20年(1945)8月15日、太平洋戦争は日本の敗北に終わり、国民は絶望と虚脱感に陥り、食糧事情は極度に悪化した。世の中は混迷と混乱の渦につつまれたが、一般の馬事愛好者がたち上がり、県と占領軍の許可を得て、昭和21年(1946)10月17日から4日間競馬を開催した。 昭和23年(1948)競馬は公営となり、大水害等で災害を受けた町村は、競馬益金の配当を受けるようになった。 しかし、競馬場付近には多布施川、神野公園があり、遊びに来る人も多く、競馬の開催回数の増加にともない開催時における人、馬、自動車等の洪水で大混雑をするようになった。また、競馬場周辺には人家もふえ、朝夕の通勤通学にも支障をきたすようになり、いろいろ問題が出てきた。そこで鳥栖市に移転することになり、昭和47年(1972)新競馬場完成、西神野競馬場は、この年の2月末で廃止されるに至った。 戦後も、農家では馬を使用していたが、農機具が次第に機械化され、馬の姿を見ないようになった。小学校の児童の中には、馬は映画やテレビの西部劇で見るくらいで、生きた馬を見る者はないようになったが、神野小学校の児童は、競馬場の閉鎖されるまで生きた馬を見ていたのである。
-
佐賀駅
【旧佐賀駅】 九州鉄道(後に国有鉄道)の長崎線が、鳥栖から佐賀まで開通したのは、明治24年(1891)8月20日である。駅が愛敬島に設置された(今の駅より南へ約200mのところ)。 佐賀新聞は、当時の様子を次のように伝えている。「今回の開通式は実に佐賀はじまって以来の盛事なれば、式に臨む者は山のごとく、各村々からの見物人はアリのごとし。汽車は鉄笛一声、軽雷地に響き、鳥栖へ向けて進行を始めた。拍手と歓声は天地を動かすごとし。見物人は初めて見る汽車にただ驚くばかり・・・」 開業時、鳥栖―佐賀間には神埼、中原の二駅しかなく、列車の運行も1日4往復で、所要時間は約1時間であった。 長崎線は、明治28年(1895)5月武雄まで開通、明治31年(1898)11月には長崎まで開通した。そして、明治36年(1903)12月に唐津線全線開通、佐賀駅は名実ともに佐賀市の玄関口となった。佐賀線が全線開通したのは、昭和10年(1935)5月であった。 【新佐賀駅】 昭和51年(1976)2月まで続いた旧駅は、現在の新駅より南へ約200mの位置にあったが、駅周辺の混雑緩和、貨物の入れ替え作業等に伴う国道263号の交通渋滞解消などを図るために、昭和46年(1971)2月から佐賀駅高架移転事業が起工され、約81億円をかけて、昭和51年(1976)2月に完成した。駅とその東西約4.3kmが高架化され、新駅周辺の南北を結ぶ道路の交通渋滞が解消された。 新駅の開通と同時に貨物取り扱いが鍋島駅に移った。駅の高架下にはバスセンター、佐賀デイトス(ショッピングセンター)などが設けられた。駅周辺には高層建造物が増え、駅前開発が進んでいる。 最近、新幹線長崎ルートの建設も決定された。
-
川上軌道と馬鉄
大正中期には佐賀軌道と川上軌道があったが、大正8年(1919)8月に両社が合併した。 佐賀軌道は、明治36年(1903)8月に創立し、その設備は品川馬車鉄道会社の使用していた軌条、車輌、馬具など一切を購入して、営業は翌37年2月から開始し、佐賀駅―諸富間の運行を行なった。 川上軌道は、大正元年(1912)11月に設立され、本社を三溝に置き、佐賀駅から川上都渡城(かわかみととき)の区間を営業した。その後大正5年には、神野踏切から招魂社(現護国神社)前までの路線を拡張した。 両社の合併は、交通機関の統一をはかるために行なわれた。協議は難航したが、大正8年8月に合併案がまとまった。社名を佐賀軌道株式会社とし、路線拡張案も出された。 佐賀軌道株式会社は神野町三溝の元川上軌道会社を本社とし、水ケ江町の元佐賀軌道会社を出張所とした。営業路線は川上線(神野町二本松―三溝―県道―川上都渡城)、中ノ小路線(佐賀駅前―中ノ小路―招魂社前)、諸富線(佐賀駅前―唐人町―県庁前―片田江―水ケ江―諸富)があり、中ノ小路、諸富の両線は馬一頭牽(馬鉄)で、川上線は軽便機関車による運転であった。機関車は、ミニSLで西部劇に出てくる機関車に似ていたが、それよりもっと小さかった。川上やお不動さんの遠足には、「川上軌道」といってよく利用したものである。 「名残り惜しい佐賀の軌道馬車、廿五日からバスと交替」(『佐賀新聞』昭和3年6月23日付)と佐賀軌道は馬車鉄道を廃して、自動車運行をすることになった。 また、佐賀軌道では、電化が論議されていたが、昭和3年11月にそれを正式に決定し、社名も佐賀電気軌道株式会社と改称した。佐賀電気軌道の佐賀―川上間の電車敷設工事は、昭和5年4月8日に竣工し、4月10日から運行を始めた。 【思い出】 また、佐賀駅前から紡績通りを通り招魂社(現護国神社)前までは馬鉄があった。馬鉄とは鉄道馬車のことで、チンチン電車よりもっと小さい車両を馬が引っぱって走る車である。車両の窓は片側4つか5つであった。馬が引っぱっているので、時々珍事が起こった。疾走している馬鉄が突然停車、何ごとかと思いきや、馬が徐に尻尾を上げて排泄作用をやるのである。時には脱線することもあった。この時は、運転手さんは、お客さんに降りてもらい、車体をかかえてレールにのせてもらって、「ハイ、発車」というようなのんびりした光景も見られた。
-
佐賀県農事試験場
現在、佐賀市川副町南里にある佐賀県農業試験研究センターの前身佐賀県農事試験場が、草場に設置されたのは、明治33年(1900)のことである。場所は、佐賀駅北口前通りとはがくれ荘から三溝へ通ずる道路の交差点の東側で、その東北角の少し北に正門があり、その東側に建物や実習田、実験畑があった。 昭和25年(1950)、佐賀県農業試験場設置条例が施行され、佐賀県農業試験場と名称変更、同27年(1952)高木瀬村に移転した。その間、佐賀県農業の発展に寄与した技術の開発などは測りしれないものがある。 農事試験場の農事参観デーが初めて開かれたのは、大正11年(1922)という(佐賀県農業試験場要覧より)。この時は、県内から沢山の農家の人が集まって大にぎわいをした。 その後、佐賀県農業試験場は、昭和43年(1968)に現在地の佐賀市川副町へ移り、平成4年(1992)には佐賀県農業試験研究センターに改称され、現在に至っている。 【思い出】 神野小学校の児童で、学校帰りに農事参観デーを見に行ったものも多い。その中のイタズラボウズが、展示場にさげてあった広告を1人で沢山とっているところを試験場の人にみつかったらしい。 翌日の朝会(その頃は毎日あっていた)で、「きのう、農事試験場に行って広告をどっさりとったものがいる・・・」と先生から叱られたこともあった。
-
神野劇場
草場の徳島酒店の東側、今駐車場になっているあたりにあった。大正13年(1924)12月起工、翌14年(1925)7月竣工、落成式を挙行、初興行(柿葺落)には大阪俳優の実川新四郎、市川鯉三郎一座60余名の歌舞伎興行を行った。 昭和11年(1936)12月からは、東宝映画上映の映画館となった。しかし、東宝映画は昭和14年(1939)6月、松原通りに東宝映画劇場が開館されるにいたり、ここで上映されるようになった。 (昭和27年発行「佐賀市史下巻」による)
-
佐賀食糧事務所政府倉庫(旧農林省米倉庫)
1 環境等 (1)環 境 JR長崎本線佐賀駅から東へ徒歩5分のところに位置している。設立当時は、囲りの水田に倉庫の影を映す、のどかな田園の中にあり、市民に国立倉庫と呼ばれて親しまれてきた。しかし、現在(昭和63年当時)は都市計画により、市役所、農協会館等公共施設が隣接し、市内の中心街に変貌しつつある。このため、貨物専用駅が佐賀駅西方約4㎞の所に新設されるとともに、35年の歴史をもつ専用側線は撤去され、併せて、敷地も長崎本線によって分断され、荷さばき等の立地条件として悪くなった。 (2)最寄貨車扱駅 長崎本線鍋島駅 当倉庫まで4.5㎞ 2 沿 革 (1)設立当時の概況及び現在までの経緯 当政府倉庫は、佐賀平野の中心地に位置し、昭和13年に建設され、過剰米対策のための米の備蓄を目的として設立されたものであり、建設に当たっては、農林省支弁により政府倉庫7棟(倉庫用地12,900㎡、建築面積4,200㎡、収容力6,800トン)その他附属設備等工費24万円余を投じて建設され、翌14年には専用側線も施設された。 戦後、約2年半占領軍に、官舎1棟、政府倉庫2棟が接収され、その間、1号倉庫は物資倉庫、2号倉庫は娯楽施設等に使用されたという歴史をもっている。 昭和47年、佐賀市の都市計画事業が実施されるにおよんで、3、4号倉庫が解体されるとともに、1、2号倉庫と5、6、7号倉庫が、長崎本線の高架線により分断されることになり、政府倉庫も5棟(倉庫敷地7,116㎡、建築面積3,061㎡、収容力4,860トン)となり、同時に専用側線も廃止され、現在に至っている。 (2)現在の状況(昭和63年当時) 県内の需給操作用として、青森産米(4類)、北海道産米(5類)と、政府倉庫周辺の農業倉庫の収容力不足を補うため、県内産大粒大麦及び小麦並びに備蓄用外国産飼料大麦の搬入を図り活用しているが、年間を通してほぼ満庫に近い状態である。 3 倉庫規模、構造 棟数 5棟 倉番数 5倉番 標準収容力 972トン×5倉番=4,860トン 建物構造 木造平屋建、二重屋根 ※政府倉庫は平成18年3月に解体となり、現在、一部は佐賀市の駐車場になっている。