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[建造物][その他][赤松校区]は9件登録されています。
建造物 その他 赤松校区
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佐賀城四方の濠
【施工】成富兵庫茂安。鍋島直茂・勝茂父子に仕えた重臣で領内農民を動員する。 筑前藩主黒田長政人夫をおくり支援する。県立図書館・佐嘉神社駐車場の北堀で筑前堀の名をとどめている。返礼に黒田長政築城の際、堀つくりに鍋島直茂人夫をおくり支援、肥前堀の名をとどめているという。 佐賀城をめぐるお堀は、東堀693m、西堀644m、南堀765m、北堀450m。幅60〜70m。深さ2〜3m。 護岸:佐賀地方の地盤軟弱のため、基底部の沈下防止に赤石(多久納所産)・松・丸太角杭等を施工してある。(西・南堀端角の道路下に説明記碑在り)。
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博物館と美術館
昭和45年10月、明治100年記念事業として佐賀県初めての本格的な博物館として建てられた。ここには唐津桜馬場弥生遺跡出土品(国重文)をはじめとする考古学資料、肥前名護屋城図屏風などの歴史的資料、染付鍋島藩絵図大皿などの美術資料、工芸資料、先覚者の書画、自然資料等佐賀県内の資料を所蔵している。美術館も昭和58年建設され多方面に活用されている。 屋外には彫刻の森として佐賀市水ヶ江出身の彫塑家古賀忠雄氏((明治36〜昭54)東京美術学校卒)の作品が展示されている。 1.二つの道 2.鶏舎の朝 3.岬の男(新文展特選) 4.生きる 5.浴後 6.晴間を待つ 7.呆心 8.漁夫三想 9.農夫 10.工場の老夜警夫 11.幻想 12.伸びよ次代 13.太陽を知る男 14.限界 15.シャモと男 16.圧 17.青雲 18.花売り 19.語らい 20.想 21.春を待つ 22.沼の幻想 23.思い 24.団欒 25.農場の朝 26.頬杖をつく またお城濠に面し、故市村清氏の遺志を継ぐ幸恵夫人寄贈の茶室清恵庵がある。 博物館玄関前には、佐賀藩カノン砲が置いてある。
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中山家住宅
当家は南北に通る安住小路の西側に東に面して屋敷を構える。文化期「御城下絵図」によると、宅地の主屋を含む北半部に中山正親抱と記され、庭園の広がる南半部は横田雉之允の名が見え、中山正親の名は北隣の宅地に記される。現在では水路を越えて宅地は広がり、中山正親抱の宅地を核として、南隣の横田雉之允の宅地東隣の藤山内蔵之允の宅地も併せ、広大な屋敷構えを見せる。 屋敷構えは北側に配した主屋を中心に、その南隣に厩(うまや)、小路側に前庭、主屋南側に品の良い庭園を設けている。小路とは生垣によって隔てられるが、かつては小路に向けて門を開いていた。門の正面に切妻屋根を戴く玄関があるが、式台を後に改造したものである。 主屋の屋根は寄棟造り茅葺きの上屋に桟瓦葺きの下屋が巡る形式だが、間取りに対応して棟が複雑に折れ曲がる。玄関から東西に延びる大きな棟が奥向きの諸室、そこから南側に鍵型に突き出た棟が、表向きの諸室、北側に突き出た棟には土間を収めている。 表向きの4室は座敷を頂点とする序列に従って配列され、いずれも棹縁天井を張り、玄関を除く3室には長押が打たれる。次の間の採光部分に窓台を設ける点は、類例が少なく珍しい。中央の棟に連なる4室は、奥向きの機能を有していたと考えられるが、改造が多いため当初の姿を特定できなかった。 ただし、棹縁天井が張られる部屋は仏間として利用され、他の武家住宅とは異なる間取りを示す。北側の棟は当初土間で、別棟の釜屋とともに広大な作業空間を用意していた。 小屋組は叉首を用いた折置組の構造で、陸梁と胴差型の梁を併用している。構造や意匠から判断して19世紀前期の建築と推定される。大規模にも関わらず、建築の保存状態は良好で、特に土間廻りがよく残され、座敷に面した庭園の質も高い。門は失われたものの、屋敷構え全体がよく残されている。周りの水路や小路と一体となって優れた歴史環境を形成し、武家住宅遺構として貴重な存在である。
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侯爵鍋島家佐賀内庫所
明治以降、鍋島家の御館は城内の三の丸であったが、明治7年2月に起こった佐賀戦争により焼失した。筋違井樋辺より県庁(本丸)めがけて大砲を発射、御館が矢向になり、2月16日午前10時頃より御館に火が掛り、蔵々共残らず焼失と「日記」(※鍋028−1)にある。 その後、鍋島山城(親類・白石鍋島家)抱地であった宗龍寺東側の地に移転、明治9年5月「佐賀御館御玄関より役所迄の処藁葺に候処、当節瓦に葺替相成候事」とあり、比較的質素な建物であったようだ。一般的に内庫所と言われていた建物は、明治末から大正初めにかけて改築されたもので、大正5年の陸軍特別大演習には摂政殿下(皇太子)お成りの予定であったが、聖上の様態が思わしくなく、急遽閑院宮が代わりを務め、新築の内庫所に宿泊された。 当屋敷は、戦後手放され、宗教団体の善隣会所有となったが、昭和40年ごろ、武雄の御船山観光ホテルに移築され、部分的な改築はあるものの、鍋島報效会所有の平面図と比較してみると、ほぼ原型を留めて現在も客室として使用されている。 ※鍋島文庫整理番号028-1 ※写真は内庫所のあった場所に建てられた市民会館。市民会館は2016年3月末に閉館し、現在は別の建物が建っている。
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東御屋敷(向陽軒)
佐賀藩初代藩主鍋島勝茂の別荘として建築され、勝茂公は一日の多くをここで過ごした。
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虚受楼
佐賀藩10代藩主、鍋島直正公が政務の疲れを癒し、漢詩の作成にいそしんだ書斎兼茶室。 天保6年(1836)2月、佐賀城南東部の水ヶ江(水ヶ江三丁目付近)に藩主の保養別荘水ヶ江茶屋「虚受楼」の建築が始まった。 直正は、天保6年の正月、下痢に悩まされて、賀正に臨まれず、2日、3日も下痢がひどく、7日には古賀穀堂を伊勢神社などに代参させるほどであった。しかし、月末になって漸く回復した。 直正は、藩主に就いて以来6年間、藩政改革に奔走し、肉体的、精神的な無理から体力が衰え、その上、持ち前の几帳面な性格が災いしたのかも知れない。 直正公伝によれば、直正は壮年時、雨水の混じった水さえ飲んで渇きを癒したこともあり、潔癖性というほどのことはなかった。しかし、晩年になって、お手水ごとに、上中下の3つの手桶の水を使って終うほどで、庶兄の鍋島安房にも同じような潔癖性があった。(直正公傳第1編)
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観頣荘
観頣荘(かんいそう)は、西御屋敷とも称し、佐賀藩3代藩主鍋島綱茂の別邸であった。元禄11年(1698)、家老鍋島弥平左衛門の抱え地に観頣荘が建立され、さらに、家臣の邸宅が取り上げられて広大な庭園が築かれた。元禄12年の文書にいわく「・・・御屋敷内手狭く殊に御近辺に罷り居り候者御近所故心遣い致し不自由迷惑致す由聞召し上げられ水月庵小路西側迄屋敷召上げられ候・・・」。造園には攝州兵庫の御本陣粘右衛門が招かれて当たったという。 観頣荘の模様については、綱茂の手記「観頣荘記」や作者不詳の絵図「観頣荘之図」(いずれも県立図書館蔵)からうかがうことができる。中央に灔藍池と呼ばれる池があり、周囲に観頣荘や繁陰山となる築山をつくり、各所に楼屋や亭を配したいわゆる回遊式庭園であったらしい。建物にはそれぞれ漱玉窩、真意楼、雲棒楼など経書から引用した名が付けられ、名前の由来が「観頣荘記」に記されている。聖堂もつくられている。しかし、「観頣荘記」は一種の文芸作品であるので、観頣荘の正確な建設場所は明確でない。だが、元文5年(1740)の城下図には池と聖堂が記されているので、敷地全体のおよその位置はわかる。同図にある鍋島主水抱え地は南側に池を望み、かつて荘居のあった場所と思われる。諫早石見抱え地は池の西側に接し、築山などを有する庭園の主要部分であったであろう。池の南東の慈眼院のある場所は、観頣荘建設の際に取り上げられた水月庵の旧跡で、ここも敷地内であったであろう。元禄13年の暮に1ヶ月近く、綱茂は息女と共に観頣荘に滞在している。城との往来は船によっているので、城とは水路で直接通じていたのであろう。池には大船を十余隻も浮かべることがあったという。同年、二の丸から聖堂を移した。このころには、観頣荘の建物、庭園はほぼ完成していたと思われる。綱茂はまた、親類や家老に縁付いた妹たちを呼んで藤の花見と歌会を行っている。その他、家老と、大風の被害を受けた領民の出来、出銀を免ずる相談を行うなど、ここで藩政をみることもあったようである。 ところが、綱茂の没後間もない宝永4年(1707)、早くも観頣荘の一部は解除され家臣8名に下賜されている。敷地内の水月庵旧跡に慈眼院が建立されたのは、宝永年中(1710まで)である。また、前出の諫早石見抱え地は4代藩主吉茂(1664~1730)から賜ったといわれている。このように観頣荘が短期間のうちに縮小解除された原因については、綱茂の文治主義に対する藩内の不評、綱茂に対する親類筋の個人的感情、天災・火災等による経済的圧迫などが考えられるが明らかでない。これに関連する資料の出現が待たれる。 元文の城下図を現在の地図と重ね合わせて観頣荘の敷地の境界を推定すると、東は西堀端と宝琳院西側の通ずる水路、西と南は佐賀大学東側を通り、左折して宝琳院南側を流れる善左衛門井樋水系、北は中周路通りとなる。鬼丸町の西部と赤松町の南部とを含む東西約200m、南北約400m、面積約8万㎡の区域である。水の流れは昔と変わらないが、昔をしのばせるものは、水辺の護岸の石とわずかばかりの立ち木のみである。
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多久家屋敷門(1棟)
永禄5年(1562)に肥前第二次東西戦争で西軍(有馬・大村・多久連合)が敗れ、前多久家は滅亡した。その後、元亀元年(1570)龍造寺隆信の実弟・長信が多久を支配し,後多久が始まる。水ヶ江龍造寺氏とも別称される。 長信の嫡男・安順は多久姓を名乗り多久安順となるが、鍋島氏の藩政運営では佐賀藩筆頭家老として実質的には藩政を采配している。多久安順は、豊臣秀吉の世に朝鮮にも出兵し、李参平を連れ帰った。水ヶ江二丁目の枳小路にある本屋敷門は伝統的な武家屋敷門となっており、建築関係者によればこの屋敷門を建てるには、「家一軒分の費用がいる」いうことで、土台は総ヒノキの立派なものである。
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協和館
明治維新以降の公共建築として最初に建てられもので、初代佐賀県知事が明治19年に松原二丁目に公会堂式の大衆も使える建物として建設されたもので、社交場としても利用されたことから、佐賀の鹿鳴館と呼ばれていた。 明治27年に佐賀市が佐賀県から買収し、佐賀市庁舎として利用されることになったが、その後は佐賀県及び佐賀市有を繰り返しながら、昭和32年に佐賀郵便局を建設されることになったため、建物は佐賀城天守台に移築され、集会施設として利用されていた。 平成16年佐賀城本丸歴史館の開館に伴い解体されたが、移築前のものを正確に留めるのは玄関部分のみで、二階部分は柱と小屋組を転用したものの柱は8寸角が5寸となり、柱間も京間を田舎間に縮小し、新たに設計され移築されていたことがわかっている。