検索結果 RESULT
[指定文化財][書跡・古文書][本庄校区]は2件登録されています。
指定文化財 書跡・古文書 本庄校区
-
紺紙金字法華経 七巻
重要文化財
高伝寺の紺紙金字法華経は12世紀半ばに定型化する釈迦説法図の構図を受け継いでおり、謹直な描線でモティフの形態を精密に描く画風は、12世紀第3四半世紀ごろの制作と考えられる。 表紙には、宝相華唐草文を、見返し絵は釈迦説法図(しゃかせっぽうず)や経典内容を金銀泥(きんぎんでい)で描いている。経文は、金銀界を引き、1行17字詰めの金字で書く。軸木は檜材割軸。軸首は8個が残り、内2個が当初のもので、金銀製撥型で魚々子地に花文を線刻し、金銀の鍍金を施している。 また、大鎧を身につけた武者など時代性を反映した新しい図像もみられる。 当初の軸首が一部にのこっていることも貴重である。 平安時代後期の優れた紺紙金字経と認められ、菩提寺である高伝寺に伝えられることは鍋島家の文化受容の一端をうかがわせ興味深い。
-
島義勇の旅日記 一巻
重要文化財
慶応4年(1868)2月26日から始まって、同年5月6日に至る109日間の記事である。多忙な間に書いたものだから、なかには単なるメモに過ぎないところもあるが、江戸城明渡しを中軸とする前後の世相と義勇自身の動静を知ることのできる貴重な記録である。 殊に義勇が接触した人物は、明治維新史に現われる主要人物の大部分といってもよい。それが日記に明記されている。特に、個人の遺墨としては書画の類が多いのに義勇の旅日記は異色である。 島義勇は、佐賀藩士で明治維新に功績のあった人だが、明治7年(1874)の佐賀の役に江藤新平とならんで、首領であったことが有名である。 義勇は、文政6年(1823)有師(ありみつ)の長子として、佐賀城下西精に生まれ、弘化元年(1844)家督をついだ。はじめは皇学を学んだが、弘化年代江戸にでて、佐藤一斎の門に入り陽明学を学んだ。郷里に帰ってからは藩命によって国学指南となった。明治2年(1869)7月には蝦夷開拓掛を命ぜられ、同年9月石狩国府に赴任して開庁している。北海道開拓には義勇は非常に力を入れ、今でも追慕する人が多いという。